第26話
どうして、キスをしたのか。
あれから何度もルナに理由を聞かれたが、咲は頑なに答えようとはしなかった。
しつこく聞かれたが、ルナも教えてくれなかったのだから自分だけ言うのは不公平だと伝えれば、それ以上言及してくることもなくなったのだ。
美大予備校に通い始めたために、二人で食事を取る時間も以前より1時間遅くなってしまっていた。
そもそも、ルナは仕事が忙しいせいで、一緒に食卓を進む回数のほうが少なかったのだ。
いなくなったと勘違いして、一人きりで食べていた頃に比べれば、一緒に食べられるだけ何倍もマシなような気がしてしまう。
「美味しい」
「本当?卵多めに入れたのが良かったのかも」
「けどさ、咲…美大のための学校にも通って家事もして大変じゃないの…?」
美大予備校までは片道1時間掛かる。
それから3時間授業を受けて、帰ってくる頃にはすっかり日は沈んでしまっているのだ。
決して、簡単なことではない。
それでも頑張れるのは、確かな目標が咲にはあるからだ。
「でも、画家になりたいから」
「そっか…咲は頑張り屋だよね」
身を乗り出して、頭を撫でられる。
髪をかき分けられた時に、ふわりと甘いヘアミストの香りが漂った。
それが、ルナにも届いていればいいのにと思ってしまう。
好きな人に、良い香りだと思われたいのだ。
「この前、ハワイで撮影してたってことは、海外ブランドのお仕事だったの?」
「そう、まあ日本のお店でしか使われないやつだけどね」
そうは言っても、海外ブランドのモデルを務めているだけでも十分凄い。
時折忘れそうになるが、この子は本当に同い年とは思えないくらい大活躍しているのだ。
「スーパーモデルとして名を轟かせる日も近いかなあ」
「もちろん!けど、ルナの名前が有名になってもさ、本名じゃないのがちょっと癪だよね」
てっきり、ルナの本名は海野ルナなのかとばかり思っていた。
初めて知る事実に、目を瞬かせてしまう。
「ルナって、本名じゃないの?」
「違うよ?イメージに合わないからって芸名使ってるの」
咲も、子役をやっていた頃は笹原ナナという芸名で活動していた。
芸能人なのだから、そうやって仕事をすることはちっとも珍しいことじゃないのだ。
「まあルナの名前も気に入ってるんだけどさ。ていうか、咲には言ってるとばかり思ってたよ」
「聞いてないよ」
「そっか、あのね、私の本名は海野…」
「まって」
突然静止の声を上げられて、ルナは怪訝な顔を浮かべていた。
必死に言い訳を考えてから、一番しっくりきた言葉を口にする。
「なに?」
「……自分で当てたいから、言わないで?」
「咲も意外と子供っぽい所あるよね」
ルナは笑っているけれど、本当は、本名を知るのが怖かっただけだ。
本名を知って、彼女の唇の感触を知って。
愛用している香りまで知ってしまったら、本当に独占欲の塊になってしまうような気がした。
一生涯、ルナの幻影を求めることになってしまうような気がした。
今だけなのだ。
少なくとも、あと数ヶ月もしないうちにこの関係は解消される。
仕事が忙しいルナとは、きっとどんどん接点が無くなっていくのだ。
それまでの間と、決めているから。
思い出に残ってしまうような事は、耳を塞いでしまいたかったのだ。
その日は予備校がないため、こっそり描いている絵の制作を進めていた。
美術室でルナの絵を描き続けてきたが、もう完成も間近だろう。
様々な色で色づいた絵を見つめながら、ポツリとひとりごとを溢した。
「タイトル、決めてなかったや…」
今まで通りであれば、『ルナ』だと名付けていたけれど、これはみんなの知らない、咲だけがしっているあの子の姿だ。
クールで、ダークな雰囲気ではなくて、年相応に笑う…明るい色が似合う彼女。
中学時代にルーズリーフに描いたルナは、雑誌から模写したものだから、タイトルは「ルナ」で問題ないだろう。
だけど、この絵は違う。
ルナだけど、ルナじゃない。
モデルとしてではなく、普通の女の子としてのルナなのだ。
「決められないや」
いずれ絵が完成しても、タイトルは付けられないままかもしれない。
だけど、それでいいような気もした。
タイトルがないと、絵は完成しない。
一生未完成なままの方が、この想いを普遍的に抱き続けられるのだ。
現実はそうじゃなくても、作品の中だけは、ルナと咲の関係は続いていけるような気がした。
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