第25話


 往復2時間掛けて寮に帰ってくる頃には、当然辺りは真っ暗だった。


 学校の敷地内は歩いている人が殆どおらず、咲も早足で自室へと向かっていた。


 扉を開けば、灯が付いていないせいで室内は暗闇に包まれている。


 パチっと廊下の電気を付けて「ただいま」と声をかけても、返事はない。


 帰ってくるたびに、もしかしたらルナがひょこっと顔を出してくれるのではないかと、愚かに期待してしまっている自分がいる。


 もう諦めなければいけないことは分かっているというのに、ルナと再びここで暮らす願望を諦めきれていないのだ。

 

 ガチャリと、以前彼女が使っていた部屋の扉を開く。


 ルナがやってくるまで、アトリエと称して画材置き場にしていた部屋だ。


 あの子のおかげで、もう一度絵をかけるようになった。


 絵を描くことを楽しめるようになって、ルナの絵は勿論、それ以外も描けるようになったのだ。


 予備校で自由に描いていいとお題を言い渡された時も、咲は思い思いに筆を滑らすことが出来ていた。


 ルナ以外の絵も、描けたのだ。


 彼女の幻影を追い求めるように、無断でベッドに倒れ込む。


 スンと空気を吸い込めば、薄らといつもルナから香っていたバニラの匂いがした。

 

 もしかしたら、香水だったのだろうか。

 見た目は大人びている彼女であれば、身だしなみとしてつけていたとしても不思議ではない。


 「あ……」


 ベッドの下に、一枚Tシャツを見つける。

 ルナがよく着ていた、キャラクターもののTシャツだった。


 そっと、手に取る。

 半ば無意識に、それを顔に近づけてしまっていた。


 そして、先ほどと同じようにスンと嗅ぐ。


 「……そっか」

 

 なんとなく、分かる気がした。

 どうして、ルナが咲の下着の匂いを嗅ぎたくなったのか。


 同じ気持ちではないだろうけど、相手を思う愛おしさから、彼女の香りを求めてしまう。


 香りは記憶を呼び起こすというけれど、まさにそうだろう。


 楽しかった日々や、喧嘩をした思い出。

 一緒に星座を見た、あの日の唇の感触。


 彼女の香りが鼻腔をくすぐるだけで、こんなにも懐かしさと愛おしさで胸がいっぱいになるのだ。


 「……ッ」


 Tシャツに顔を埋めながら、涙を流してしまう。


 誰にも聞かれることはないのだから押さえる必要もないというのに、必死に声を押し殺していた。


 会いたいのだ。

 想いが結ばれないことは分かっているけど、お別れの言葉くらい、最後にきちんと言いたかった。


 勝手に咲の世界に足を踏み入れて、何も言わずに出て行って、咲の感情を掻き乱すのだ。


 涙で嗅覚も鈍り始め、彼女のバニラの香りも薄れ始めた時だった。


 薄暗かった室内が突然パッと明かりが付いて、驚いて顔を上げる。

 

 そこには、咲と同じくらい驚愕した様子のルナの姿があった。


 「咲、何してんの?変態…っ?」


 心臓が止まりそうなくらい、大きな衝撃を受ける。


 彼女の右手にはスーツケースが握られており、いつも通り変装のマスクと帽子を被っていた。


 Tシャツをベッドに置いてから、すぐ側まで駆け寄る。


 「なんで……」

 「え、なにが?」

 「もう、出て行ったんじゃないの…?」

 「急に海外撮影入って、ハワイ行ってた…行ってきますって手紙書いてたでしょ?」


 あのシンプルな文字で、そこまで読み取れるはずがないだろう。


 衝動を抑えられずに、咲は目の前にいる彼女に勢いよく抱きついていた。

 

 身長差もあるため、必然的にルナは前屈みの体制になってしまう。

 

 「え、どしたの咲?素直過ぎて怖いよ」

 「ばかっ……」

 「バカっていう方がバカなんだよ」

 「いなくなったかと思った…」


 声を震わせながら、彼女の肩を濡らしてしまう。

 それに気づいたのか、ルナから茶化す様子はなくなった。


 慰めようと、優しく背中をさすってくれている。 


 「もう会えないかもって…怖くて」

 「……ごめんね」

 「勝手に、いなくならないでよ…せめて、さよならくらい言わせて」


 背中に触れられる、あやすような手つき。

 それがあまりにも心地よくて、心が次第に温もりに包まれていくのを感じていた。


 「流石に黙っていなくなったりしないよ?でも、咲さびしくて私のTシャツの匂い嗅いじゃうって可愛いね」

 「……私のパンツ嗅いでたくせによく言うよ」

 「お互い様じゃん。咲はなんで、わたしの匂い嗅いでたの?」


 そうやって、ルナはいつも咲に聞いてばかりだ。


 いつも咲ばかりが驚かされて、ひやひやと肝を冷やしている。


 そっと、笑みを浮かべている彼女の頬を掴んだ。

 

 あんなに散々泣かされて、ファーストキスまで奪われたのだ。


 一度くらい、咲だって自分勝手にさせて欲しい。


 軽く背伸びをして、触れるだけのキスを落とす。


 羞恥で頬を赤く染め上げながら、強がった声を溢した。


 「ルナは、なんでだと思う?」


 天体観測の時の彼女と同じセリフ。

 ルナは、驚いたように目を見開き、耳を赤くさせている。


 いつも振り回されてばっかりなのだから、これくらいは許して欲しい。


 いつか、本当に離れ離れになる。

 時間だって多くは残されていない。


 「……わかんないよ」


 少しだけ恥ずかしそうにしているルナを見て、満足してしまう。


 どうしてルナが散々咲を揶揄ってくるのか、分かったような気がした。


 この子はこれから世界に羽ばたいて、いろんな景色を見て。


 沢山の人と出会って、咲のことなんて忘れてしまうかもしれない。

 だから今だけ…少しの間だけ、独り占めすることを許して欲しいのだ。

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