第23話


 時刻は夜の22時過ぎ。

 一般人の咲でさえ夜食を躊躇する時間帯だというのに、モデルの彼女は美味しそうにお菓子を頬張っている。


 どうやら太らない体質なようで、毛穴ひとつない肌が羨ましい。


 肌荒れは勿論、ダイエットとも無縁なのだろう。


 咲は温かい緑茶を飲みながら、彼女の隣でテレビを眺めていた。

 

 結局あの後、放課後に伊勢屋へ連れて行かれて、色々と和菓子を買って帰ってきたのだ。


 リリ奈の言う通り美味しくてつい食べ過ぎてしまい、今こうして緑茶でホッと一息をついているのだ。


 「作品って、タイトルとか付けるものなんだ」


 テレビ画面には、芸術品特集番組が映し出されていて、過去の有名な作品から、若手芸術家の作品まで。


 幅広く紹介されているが、どの作品も決まって全てにタイトルが付けられているのだ。


 「咲も、絵にタイトルってつけてる?」

 「うん」

 「じゃあ、あれも?」


 そう言って指さしたのは、彼女が勝手に持っていった、中学時代に咲が描いたルナの絵。


 隙間時間にルーズリーフに描いたものだと言うのに随分と気に入ったようで、リビングの壁に飾られているのだ。


 「あれは、ルナ」

 「じゃあ、天文部のポスターは?」

 「そのまんま。天文部のポスターかな」

 「じゃあ、今描いてる私の絵は?」


 おそらく、美術室で描いている彼女の油絵のことだろう。


 美術室でこっそり筆を進めているが、南に見られて以来誰にも見せていない。

 

 もちろん、本人には一度も見せていないままだ。

 

 あの絵は、まだタイトルを決めていなかった。決めていないというよりは、決められずにいるのだ。


 「咲の作品、これからも沢山見たいなあ」

 「じゃあ、もし私が画家になったら……」


 そこまで言って、口をつぐむ。

 それ以上言うのは、この子に迷惑を掛けてしまう。


 『有名な画家になったら、いつかまた会ってくれる?』なんて。


 世界を夢見ているルナには、重荷になってしまうだろうに。


 欲を出すな、と必死に自分の心を押さえ込む。


 だけど、無邪気に咲の絵を見たいと言う彼女のおかげで、美大へ行くための予備校に通う決意をしているあたり、本当に咲は安直だ。




 あれほど来るのが億劫だった職員室に、咲は自ら出向いていた。

 用事があるのはもちろん、咲に美大を勧めてくれた美術教師。


 お昼ご飯を食べている途中だというのに、彼女は嫌な顔一つせず取り合ってくれた。


 「そっか、七瀬さん美大目指すんだね」

 「はい、簡単なことじゃないって分かってるんですけど…」

 「でも、人生挑戦したもの勝ちよ?言い訳並べて何もしない人より、何倍もかっこいい」


 美術教師なのだから、彼女は間違いなく美大に通っていただろう。いわば先輩にあたる人物からそんなふうに励まされて、俄然やる気がみなぎってしまっていた。


 「私は5浪したのよ。けど、現役で入ってる子も沢山いた。中には10浪してる人もいたよ」

 「10浪…!?」

 「カッコいいよね」


 にかっと笑う教師を見て、そう思える彼女が素敵だと思う。


 多くの大人は、そこまで挑戦するくらいなら諦めろと、堅実な夢を目指せと言うだろう。


 教師という立場ながら、生徒の夢を真剣に応援してくれる。


 大人なのに、大人と子供どちらの目線から物事を考えてくれているのだ。


 何か困ったことがあったら、彼女に相談しようと心に留めながら、去り際に頭を下げる。


 そのまま職員室を出ようとすれば、今度は担任教師から声を掛けられていた。


 「七瀬、ちょっといいか?海野のことなんだけど」


 海野とは、一体誰のことだろうか。

 仲の良い二人の苗字は如月と桃宮だから、彼女たちのことではないはずだ。


 クラスメイトにも海野という生徒は存在せず、全く思い当たる節がない。


 首を傾げていれば、教師は慌てたように訂正を入れた。


 「あ、モデルのルナのことだ」


 あれだけ一緒にいるのに、そんなことも知らなかった。

 キスをして、食の好みも知って。


 部屋でどんな服を着ているのかも知っているというのに、そんな基本的なことを知らずにいたのだ。


 「突然同室になって驚いただろう」

 「いえ…」

 「もう少しで工事も完成するらしいから」

 

 ドクンと心臓が嫌な音を立てた。

 その音はどんどん大きくなって、次第に足元がふらつきそうになる。


 あの子と離れたくない、と思ってしまっているのだ。





 いずれ離れ離れになることは、最初から分かっていた。

 部屋の工事さえ済んでしまえば、終わってしまう関係。


 隣同士で、スナック菓子を頬張りながら一緒にテレビを見て、ゲームをしても。

 それが永遠に続くことではないと、分かっていたのに。


 あの楽しい時間が、これから先も続いていくような気がしていたのだ。


 どうせなら、離れる前に何かお別れ会でもしたい。あの子はお菓子が大好きだから、たくさん買い込んで部屋中に隠してあげれば喜ぶだろうか。


 部屋も可愛くデコレーションをすれば、ルナの記憶の楽しい思い出として残ってくれないだろうか。


 一生のうちの、僅かな時間。


 これから世界で活躍していく彼女にとって、酷く刺激のない日々だとしても、ルナの思い出の一部に残りたいと思ってしまう。


 ほんの少しでいいから。


 滅多に思い出さなくてもいいから、ふとした時にルナが幸せな気持ちになれるような思い出を、二人で作りたかったのだ。


 「何か、言った方がいいのかな」


 漠然的にそう思うのに、それが何なのか分からない。


 言わなきゃいけないことがあるはずなのに、肝心な言葉が何なのか本人も分かっていないのだ。



 モヤモヤとした蟠りを抱いたまま、寮に到着する。

 いつも通り鍵を使って部屋を開けば、咲はどこか違和感を覚えていた。


 シンとしているのは、別に珍しいことではない。


 今までだって、仕事で彼女が部屋を開けていることは何度もあった。


 しかし、あれだけ散乱していた靴が一足もないのだ。


 「え…」


 慌てて靴を脱いで、勢いよくルナの部屋を開けば、スーツケースがないことに気づく。


 ただでさえ殺風景だった景色は、彼女の荷物がほとんど残っていなかった。


 「嘘……」


 洗面所や咲の部屋を見て回っても、そこに彼女の姿はない。


 最後にリビングへ行けば、机の上に一枚紙が置かれていた。


 「…ッ」


 そこには、『じゃあね!』とだけ書かれている。


 「それだけ…?」


 紙を裏返しても、何も書いてない。

 たったこの紙を一枚だけ残して、あの子はここを出ていってしまったのだ。


 自由人で、天然で、何を考えているか分からないあの子らしい。


 ぽたりと、涙がひとつ溢れる。


 必死に拭っても、止まらずに溢れ続ける。


 「まだ、バイバイって言ってないよ…」


 ギュッと、紙を持つ手に力が入る。

 ぽたぽたと涙の跡が出来た用紙は、すっかりグシャグシャになってしまっていた。


 その場にへたり込んで、溢れ出てくる感情を瞳からこぼれ落とす。


 「気づかなきゃ良かった…」


 好きだ


 ルナが、好きだ。


 今まで抱いていた感情は、全てこの想いに繋がっていた。


 ルナが好きだったから、可愛くて仕方なかった。

 彼女の絵を描いて、楽しかった。


 好きな子のそばにいられて、幸せだったのだ。


 絶対に叶わない。遠い存在の人だと分かっていたから、必死に気づかないふりをしていた。


 「……バカ」


 誤魔化すように、悪態を吐く。

 あれだけ一緒にいたのだから、お別れの一言くらい合ってもいいじゃないか。


 あまりにも薄情すぎる。

 だけど、それすらも愛おしいと思ってしまっているのだから重症だ。


 酷くシンプルなこの感情に、咲は失って初めて気づいたのだ。

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