第16話


 起きて直ぐにハムスケと戯れてからリビングへと向かえば、やはりそこにルナの姿はない。


 まだ9時にも回っていないというのに、人気モデルの彼女は休日でも朝早くから仕事をしているのだ。


 一人分の朝ごはんを作って、ゆっくりと食べ始める。

 今日は特に予定がないため、以前頼まれた天文部のポスター作成に取り掛かるつもりだった。


 「描けるかな……」


 結局、あれから一度も筆は進んでいない。

 休日にやればいいと、放課後は以前のようにデッサンを繰り返していた。


 お気に入りのブルーベリージャムをトーストに塗っていれば、室内にインターホンの音が鳴り響く。


 「誰だろう……」


 同室者のルナであれば、鍵を持っているのだからわざわざインターホンなんて鳴らしはしない。


 美井やリリ奈だったら、用があるならスマートフォンに連絡を入れてくるだろう。


 不思議に思いながら、玄関へと向かう。

 部屋着のまま、軽く髪の毛を整えた後、玄関の扉を開いた。


 「おはよう、咲ちゃん」

 「え……」


 そこにいたのは、アイドルの五十鈴南だ。

 以前会った時とは違い、私服姿で佇んでいる。


 テレビで見る可愛らしい格好ではなくて、私服は意外とカジュアルなものだった。


 「なんですか?ルナはいませんよ」

 「知ってるよ。美味しいパン持ってきたから、入れてくれない?」


 返事を聞かずに、南は室内に足を踏み入れて玄関に靴を置いていってしまった。


 慌てて彼女の後を追いかける。


 一体、五十鈴南が何をしに来たのか。その要件だって何も聞けていないままなのだ。


 「あれ、まだご飯食べてる途中だったの?丁度良かった」


 咲の向かいの席に腰を下ろして、「いただきます」と言ってから南は自身が持って来たパンを食べ始める。


 戸惑いつつも、咲も自分の席に座って食べかけの朝ごはんを食べ始めた。


 天気のいい休日に、アイドルと朝ごはん。


 美井が聞けば泣いて羨ましがりそうな状況も、ファンでもない咲にとっては何も嬉しくない。

 

 ルナがいないと分かっているということは、恐らくこの子は咲に用事があって来たのだ。


 「何のようですか……?」

 「咲ちゃんに聞きたいことがあって」


 テーブルに手を置いた彼女は、身を乗り出して咲の耳元付近に口を寄せてくる。


 そっと口を開いてから、南は咲が触れられたくない名前を溢れ落とした。


 「笹原ささはらナナ」


 直ぐそばにいる彼女から逃れようと、バッと距離を取る。


 バクバクと、心臓はうるさいほど大きく鳴っていた。


 「やっぱり」

 「なんで…いつから……?」

 「面影あったから、もしかしたらって思って」


 こんな反応をしてしまえば、肯定しているようなものだ。


 ウロウロと、目線を忙しなく彷徨わせる。


 あれから8年経っているというのに、分かる人には分かるのだろうか。

  

 緊張の最中に、キュッと心臓が縮まり返るような痛みを上げた。


 「ずっと気になってたんだよね。あの子、今何してるのかなって」

 「引退した人を探し出すなんて、タチ悪いです」

 「もちろん誰にも言ってないよ?ただ、知りたかっただけ……私が元子役なの、あなたは知らないだろうけど」


 その場で立ち尽くしながら、思い返すのはあの頃だった。


 まだ小学生に入ったばかりの頃。

 凄まじいストレスで、ろくに眠れずに、ご飯も喉を通らなかった日々。


 「あなたが突然子役を引退したから、代役として出演したドラマ。そのおかげで人気が出て、今もこうして芸能人やれてるの」


 過去に引き摺られて、虚な目をする咲の肩を、南が掴む。


 恐る恐る見やれば、そこにいる彼女は酷く優しげな瞳をしていた。


 「今の私があるのは、あなたが引退したおかげでもある…だから、お礼を言いたかっただけ。そんなに怯えないでよ」

 

 突然、全てを投げ出した。

 沢山の人に迷惑を掛けてかけて、あの場所から逃げ出したことに対して、お礼を言われる日がくるなんて思いもしなかった。


 「もう、芸能界に戻る気はないの?」

 「私は、向いてなかったんです……」

 「あんなに演技が上手なのに?もったいないなあ」


 手を取られて、再び南と向かい合って座り合う。


 持ってきてくれたパンを頬張れば、クルミとチョコが入っていてとても美味しかった。


 モグモグと頬張りながら、南の言葉に耳を傾ける。


 「顔も変わらず可愛いままだし、オーディションとか受ければすぐに事務所所属できるんじゃない?」


 ゆっくりと、首を横に振る。

 無責任に投げ出した咲が、あの場所に戻っていいはずがない。


 咲は特別ではなかった。

 だから、必要なくなった。

 ただ、それだけのことなのだ。


 もう8年前に引退したのだから、今更戻るつもりはなかった。


 「そっか…無理強いはしないけどさ、もし興味とか出たら連絡してよ」


 そう言いながら渡されたのは、一枚の名刺だった。

 男性の名前が記載されており、有名な芸能事務所名が大きく印字されている。

 

 「私のマネージャーのだから」


 これから仕事があるらしく、南はその言葉を最後に部屋を出て行った。


 一人残されて、じっと名刺を眺める。


 有名な芸能事務所の名前。

 子役として頑張り続けたからこそ、五十鈴南は今のポジションまで上り詰めたのだ。


 「……南さんが、あの役引き継いでくれてたんだ」


 2歳の頃から出演していた、シリーズもののテレビドラマ。


 突然引退を発表してから、テレビを全く見なくなったせいでそんなことも知らなかった。


 咲の尻拭いをしてくれた恩人の名前すら、知らずにいたのだ。


 

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