第10話


 あれほど筆が乗っていた数日前とは違って、咲はキャンバスの前で手を止めてしまっていた。


 放課後になって美術室に来る事も、以前に比べたら憂鬱ではなくなっていたというのに。


 下書きが終わっても、何色で彼女を色付けていこうか悩んでしまっているのだ。


 喧嘩をしていたせいで、ルナにモデルになってと頼めずじまいだった。


 忙しい為時間は限られているだろうが、「ファンのためなら仕方ないな」とふざけながら引き受けてくれただろうに。


 ハムスケを探してくれたお礼だって、きちんと伝えられていないのだ。


 悪い人ではない。

 寧ろ良い人で、彼女の明るさに救われてきたのも事実だ。


 だけど、やっぱりここで咲が折れるわけにはいかない。

 

 頑固な気持ちと同じくらい、この状況が心苦しくて堪らないのも事実なわけで。


 大きく溜息を吐いたのと、背後から女生徒と思わしき高い声が聞こえたのは殆ど同時だった。


 「わあ、すごい本物みたい」


 透き通った綺麗な声に、驚いて顔をあげる。

 普段、放課後は誰も寄り付かない美術室に現れた、一人の女子生徒。


 そこにいる人物に、驚きのあまり目を見開いてしまった。


 「五十鈴いすずみなみさん?」


 そこにいたのは、友人の美井が応援しているアイドルの『五十鈴南』だ。


 在学生なため校舎内にいてもなんら不思議なことではないが、どうして普通科の校舎にいるのかと戸惑ってしまう。


 芸能科の生徒と普通科の生徒では寮はもちろん、校舎だって別なのだ。


 唯一共同で使用している体育館も、授業時間が被ることはない為、彼女たちと私生活で関わる機会は滅多にない。


 だからこそ、突如現れた芸能人の姿に驚きを隠せずにいるのだ。

 

 「それ、ルナでしょ」

 「はい……」

 「七瀬咲ちゃんで、間違いない?」

  

 戸惑いつつも首を縦に振る。

 なぜ咲の名前を知っているのかと疑問符をぶつけるより先に、彼女に手を取られてしまった。


 セーラー服の裾から僅かに見える腕は、信じられないくらい細い。

 雑誌やテレビで見るより何倍も、五十鈴南は華奢だった。


 「ちょっとお話しようよ」


 返事を聞かずに、南が歩きだす。手を取られている為に、咲も強制的に足を踏み出す羽目になっていた。


 「なんですか、いきなり」

 「私の部屋と、ルナとあなたの部屋。どっちがいい?」

 「え…?」

 「答えないの?じゃあ、普通科の寮も見てみたいし、そっちにしよ」


 校舎を出た南は、躊躇うことなく普通科の寮に向かっていた。

 外に出る前にサッとマスクを付けていたが、小さな顔と華奢な骨格は、ただ歩いているだけで人の目を引いてしまう。


 寮に着くまでの間に、数名の生徒が彼女を見て振り返っていた。


 ルナと暮らしている部屋に招き入れれば、南は部屋中に貼られているマスキングテープを不思議そうに眺めていた。


 ご丁寧にテーブルにまできっちりと境界線が張られているのだから、そう思われても仕方ないだろう。


 ルナは今日も仕事のようで、部屋にはいない。思い返してみれば、ルナは一体いつ学校へ行っているのだろう。


 高校生として、この制服を着ている彼女を今のところ一度も見たことがなかった。


 「いきなりごめんね?驚いた」


 マスキングテープが貼られたソファのど真ん中に、南が腰を下ろす。


 冷蔵庫に入っていた豆乳のパックを二つ取り出して、彼女に差し出した。 


 「良ければ、どうぞ」

 「へえ……本当に豆乳ばっかり飲んでるんだ…あの子の言う通り」


 名前から、咲が好んで飲んでいる飲み物まで。


 あまりの詳しさに怪訝な顔を浮かべていれば、南はあっさりとその答えをくれた。


 「私とあの子…ルナは、同じ事務所なの。まあ、お互い芸歴も長いから、その分割と仲良いんだけど…」


 チュウっと、ストローを使って南が豆乳を飲み込む。

 何気ないパックの豆乳も、可愛い人が持つとまるでCMの撮影風景のように見えてしまう。


 これが現役のアイドルかと、美井が夢中になる理由が少し分かるような気がした。


 「数日前からあの子、めちゃくちゃ機嫌悪いのよ」


 どうして現役アイドルが、わざわざ咲の元まで出向いたのか。


 美術室で絵を描いている事も。

 本名も、豆乳を飲んでいる事も。


 友人であるルナから、全て聞いていたのだろう。


 ここまでくれば、彼女が伝えたい本題にも薄々気づき始める。


 「仲直りしろって、言いにきたんですか」

 「まあ、そんなところ?マネージャーさんも大変そうで見てられなくてさ。ほら、あの子世間知らずな所あるし。よく言えば天然なんだけど…小さい頃から芸能界で生きてきたから、自由人なの」

 「……だから、悪いことしても誰も叱ってやらないんですか」


 芸能人だから。

 天然だから。

 自由人だから。


 そのせいで、間違ったことをしても誰にも叱ってもらえない。


 悪いことをしても、それが悪いことだと分からない。


 怒られることは確かに怖くて、嫌なことだけど。

 怒られないせいで、普通から逸れてしまう方がよっぽど怖いだろう。


 「パンツを嗅がれたことも、部屋を荒らされたことも…別にそれはもういいんです。ただ、私は一言ごめんねって…そう言って欲しいだけで」


 膝の上で握っていた拳に込める力が強くなる。


 咲だって、ルナのことは嫌いじゃない。だからこそ、当たり前の一言が彼女から貰いたいだけなのだ。


 それが、人として当然のマナーで、ルールだから。


 「本当に良い子だから、自由な言動でルナが勘違いされてほしくない。深く知らない相手からしたら…自由人って、我が儘な人だって思われるんです」


 ルナの自由奔放な所が、咲は好きだ。

 だけどきちんと、そこにも線引きをしないといけない。


 自由と我が儘は、似ているようで全く違うものな筈だ。


 「部屋を荒らしたって、あの子が……?」


 予想外だったのか、南は困惑したような声を上げていた。

 咲だって、喧嘩をしたとはいえまさかあの子があんな事をするとは思いもしなかったのだ。


 片付けるのも大変で、悪戯にしては度が過ぎていた。


 「喧嘩して、暫くしたら部屋がぐちゃぐちゃに荒らされてて」


 考え込むような素振りをしたのは一瞬で、おかしそうに彼女が笑い始める。


 呆れたように額を抑えながら、サラリと真実を言いのけてしまった。


 「それ、勘違い」

 「勘違い…?」

 「あの子、部屋片付けようとしたんだと思うよ」


 片付けとは正反対だったというのに、何を言っているのか。


 あの惨状を見て、片付けようとしていたのだと思う人なんて一人もいないだろう。


 「ルナって、家事何も出来ないの。帰国子女だから英語は喋れるけど、ろくに授業も出てないから勉強だって出来ない」


 夜遅くに返ってきたかと思えば、咲が起きるよりも早く家を出る時もあった。


 休みも無く働いて、疲れているだろうにルナはいつも笑顔で咲に接してくれていた。


 あんなハードスケジュールで、ろくに勉強時間が割けるとは思えない。


 「それでいいって、言われてたの。芸能人は特別だからって……普通の人とは違う人生を送ってるんだから、夢のために我慢しろって」


 どこか噛み締めるように、南がゆっくりと言葉を噛み締めている。

 そう言われ続けて、自分でもそんなものだと受け入れて来たのかもしれない。


 南はアイドルとして、ルナはモデルとして。

 青春を投げ打って、仕事に力を注いできたのだ。


 「…これからも、ルナのこと宜しくね」

 「え……」

 「咲ちゃんみたいな子、今まであの子の周りにいなかったの。本当にルナのことを考えて、怒ってくれる人」


 ご馳走様と言いながら、南がソファから立ち上がる。

 空っぽになった豆乳パックをこちらに渡しながら、自然体の笑みを向けてくれた。


 「ルナって、想像を絶するくらい不器用な子なんだよ。けど、パンツ嗅ぐのは普通に怖いから怒って正解だと思う」


 じゃあね、と言い残して南が部屋を後にする。


 一人残されて、考えるのはあの子のことだった。


 口論になったあの日、咲は確かにルナに向かって家事を何もしないと怒ったのだ。


 咲の言葉を聞いて、あの子なりに努力をしようとしていた。


 なのに、あんなにも冷たい態度を取ってしまった。


 努力をしても報われないもどかしさを知っているというのに。

 ルナの立場に立って、物事を考えてあげられなかった。


 散々ルナにそっけない態度を取ってしまった自分が、恥ずかしくなる。


 冷たくする度に、悲しそうに視線を落とすルナの顔が脳裏に浮かんだ。


 「最低だ…」


 自己嫌悪と罪悪感に襲われる。

 ルナの事情を知らずに、ひどい態度を取ったことを、謝りたくて仕方なかった。

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