第6話
1限の数学の授業は、担当教師の遅延により急遽自習の時間へと変わっていた。
代役として見張っている社会科教師は、朝早いせいか教卓の前に椅子を置いてすっかり眠ってしまっている。
私語こそはないが、教室内を見渡せば皆思い思いに好きなことをしていた。
復習も終えて、手持ち無沙汰からこっそりとノートの隅に絵を描く。
あれほど描けなかったというのに、自然とルナの顔がパッと浮かんだのだ。
昨晩散々見た、満面の笑みを浮かべるルナの絵を描いていれば、右隣から「うわ」と声が聞こえて顔を上げた。
「上手くね?七瀬さん、ルナのこと好きなの?」
他意の無い、何気ない一言。
男子生徒のその言葉に、一気に頬を赤くさせて言い返してしまっていた。
「は?好きじゃないし」
「けど、それルナだろ?めっちゃ上手いから…」
サッと、教科書で絵を隠してしまう。
好きではない。
第一女の子同士なのだから、恋愛感情を抱くはずもないのだ。
だけど、一緒にいて心地良いのは事実だった。
友達と呼ぶには図々しいけれど、同室者として良い感情を持ち始めているのだ。
購買で購入した食材が入ったエコバッグを抱えながら、いつも通り自室へ戻って来れば、そこにルナの姿はなかった。
授業に出ていればもう帰ってきているであろう時刻なため、恐らく今日も撮影が入っているのだ。
「本当に、大人気モデルなんだよね」
この部屋であの子と話していると、それを忘れそうになる。
同い年の女の子として、笑っている姿ばかり見たせいだ。
「あれ……」
リビングへ向かえば、ベランダの扉が開いていることに気づいた。
カラカラと音を立てながら、すぐに閉める。学校へ行く前に洗濯を干したため、その時に閉め忘れたのかもしれない。
窮屈な制服を脱いでしまおうと自室へ移動する。
リボンタイを外そうと、手をかけた時だった。
「え……」
ハムスケのゲージが空いていることに気づく。
サッと血の気が引いていくのがわかった。
慌てて駆け寄って覗き込むが、中にハムスケがいる気配はない。
「落ち着こう…」
体が小さいのだから、遠くへはいかないはずだ。室内で、隅っこに蹲っている可能性が高いだろう。
ハムスターを飼う時に、こういった時は落ち着いて対処するようにペットショップのお姉さんに言われたのだ。
猫とは違い、脱走したとしても家の中で見つかるケースが殆どだと。
「あ…」
先ほど、ベランダの扉が開いていたことを思い出す。
慌てて立ち上がってから、足をもつれさせながらベランダを出る。
「いない……」
洗濯竿以外置かれていないのだから、ほかに隠れる場所もないのだ。
しかし、隔板の隙間から隣の部屋に行った可能性もある。
すぐに両隣の部屋に尋ねに行けば、ベランダの扉はずっと締めており、探してもらってもいないと返事が返って来てしまった。
段々と日も暮れ始めて、どんどん嫌な方向へ考えがいってしまう。
猫や鳥、ヘビなど、ハムスターの天敵はたくさんいるのだ。
春とは言え、夜になれば気温も下がる。
いても立ってもいられずに、咲は寮を出て学園の敷地内を探し回った。
寮周辺から始まり、坂を降ってグラウンドや、テニスコート付近も見て回る。
「いない……」
どこを探しても、ハムスケの姿はない。
途方に暮れていれば、ぽたりと雫が服を濡らした。
パラパラとまばらだった雨は、次第に勢いを増していく。
しかし、傘を取りに行く時間すら惜しくて、咲はずぶ濡れのまま、引き続き探し回った。
辺りは完全に暗くなり、昼夜の寒暖差に加えて雨も降っているせいで、すっかりと冷え込んでしまっている。
だけどハムスケもこの暗闇の中で一人ぼっちでいるかもしれないのだ。
咲の不注意のせいで、万が一のことがあれば立ち直れない。
小さなあの子が頼れるのは、咲だけなのだ。
「クシュッ…」
自然とくしゃみが溢れる。
雨も相まって、体感温度はかなり低くなっているのかもしれない。
それでも必死になって探していれば、突然、降り注いでいた雨がパタリと止んでしまった。
驚いて顔をあげれば、マスクと帽子をつけた女の子が、咲に傘を差してくれている。
変装していても、スタイルが良すぎるせいでオーラがちっとも消せていない。
「ルナ……」
「なにしてんの?」
「ハムスケが、いなくなって……」
驚いたように、彼女の目が見開かれる。
マスクをしていても、衝撃を受けているのがよく分かった。
「いつから探してるの?」
「もう、3時間くらい…」
「風邪ひくから、一回戻りな」
「でも……」
言い返そうとすれば、片手で口元を覆われてしまう。
安心させるように、ルナはマスクを取ってから優しげな笑みを浮かべてくれた。
「今日風邪引いたら、明日探せないよ?」
身につけていた春物ジャケットを脱いで、躊躇なくずぶ濡れの咲の肩に掛けてくれる。
見るからに高級品を汚してしまうのが、申し訳なくて脱ごうとすれば、ルナは「着てて」と声を上げた。
「汚れちゃうよ?」
「いいから」
無理やりに傘を握り込まされたかと思えば、ルナはくるりと反対方向を向いてしまった。
「少し探したら戻るから」
そして、雨が降っているというのに躊躇うことなく足を進めていく。
そのまま去っていく彼女の背中を、ジッと見送りながら、ギュッと傘を握る手に力が籠る。
あの子の優しさが、ジックリと胸に沁み回っていくのを感じていた。
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