第2話


 誰もいない美術室にて、咲は一人で真っ白なキャンバスに鉛筆を滑らせていた。


 長年愛用しているデッサン用の鉛筆で、短くなるたびに何度も買い替えるほど気に入っている。


 桜川学園には美術部は存在しないが、美術室は解放されているために、放課後になれば絵を描いて帰るのが咲の日課になっていた。


 「もうちょっと……こうかな」


 愛用しているスクール鞄を素描しても、ちっとも楽しいとは思えない。


 見本通りに、正しくデッサンをして陰影を付ける。


 一般的に見ても下手ではない咲の絵。


 描くのが楽しくて堪らなかった日々が、遥か昔のことのように感じられる。


 「……はあ」


 自然と、大きなため息がこぼれ落ちる。

 視線を下げれば、可愛らしいブラウン基調のチェックスカートが視界に入った。


 「可愛いなあ…」


 都内でも可愛いと有名な制服。

 だけど、咲が本当に着たかったのはこの学園の制服ではないのだ。


 ネイビーカラーで制服が地味だと酷評されている、芸術科のとある高校。


 絵を描くことが好きだった咲の第一志望は、桜川学園ではなくそこだったのだ。


 しかし咲の努力が報われることはなく、結果として普通科の高校に通うはめになっていた。


 受験までひたすらに絵を描き殴っていた反動か、咲は以前のように絵を描くことが楽しいと思えなくなってしまっていた。


 あの頃のようなワクワクとした感情は失われて、どこか作業のように素描をすることでしか筆を動かせない。


 腕が鈍らないようにデッサンをする日々は、楽しさよりも苦痛が上回ってしまっているのだ。


 「…できた」


 早く切り上げたいあまりに、随分と適当な仕上がりになってしまった。 


 後はもう明日直せばいいと、さっさと荷物を纏めて部屋を出る。


 あれほど大好きだったことが、こんなにも苦しくて仕方ない。


 それでも長年の癖で、書かなければ落ち着かない。


 まるで呪いのように、咲は絵を描くことに縛られ続けているのだ。









 購買で買った野菜やササミ肉が入ったエコバッグは重く、寮までの道のりが随分遠く感じてしまう。


 全寮制であるが故に、敷地内には小さなスーパーマーケットのようなお店が存在しており、皆そこで買い物を済ませるのだ。


 もちろん食堂も朝から晩まで開いているため、料理が苦手な生徒は自炊をせずとも過ごしていけるようになっている。


 2LDKのマンションのような間取りにて、2人1組でそれぞれ部屋は割り振られる。


 同室となる生徒は同学年の同じ学科の生徒で、入学と同時にランダムで決められるのだ。


 しかし、今年の新入生は奇数だったこともあり、咲は広々とした室内を一人で優雅に過ごしていた。


 空き部屋をアトリエとして利用して、同室者とのトラブルに巻き込まれることもない。


 今日も快適なおひとり様ライフを満喫しようと、軽い気持ちで自室の部屋に鍵を差し込む。


 「あれ……?」


 鍵を回しても、引っかかる感触がない。


 今朝締め忘れたのだろうかと疑問が湧くが、用心深く真面目な性格から、それは考えられなかった。

 

 恐る恐る扉を開けば、やはり鍵はかかっていなかったようで、あっさりと扉は開いてしまった。


 ゴクリと、思わず生唾を飲み込む。


 「だ、誰かいるの……?」


 声を掛けても、返事はない。

 直ぐにリモコンで部屋の明かりを付けるが、中に誰かいる気配はなかった。


 「これ、誰の……?」

 

 玄関口に、咲のものではないミュールが一足分無造作に置かれている。


 デザインからして女性物だろうが、咲の不在時に見知らぬ誰かが侵入したのは間違いないのだ。


 咄嗟に、傘立てに刺さっていた傘を手に取る。


 剣道で竹刀を構えるように傘を握り込みながら、恐る恐る室内に足を踏み入れた。


 「あの……部屋間違ってません?ここ私の部屋なので、誰かは分からないけど、本当に怖いから出てってよ……」


 侵入者相手に敬語を使うのもおかしな話だが、顔もわからぬ相手に向かって声を荒げる。


 アトリエ代わりに画材や自身の作品を保管している部屋。


 自分の自室として使用している部屋。


 どちらにもおらず、残されたのはリビングだけだ。


 一度大きく深呼吸をして、勢いよく足を踏み入れる。


 「きみ、何してんの」

 「は……?」


 恐怖でバクバクと早く打っていた胸が、今度は驚きでピタリと止まってしまいそうだった。


 手の力が抜けて、ストンと傘が滑り落ちる。

 床に直撃する音が、やけに大きく感じられた。


 侵入者は、何食わぬ顔でソファに座ってスナック菓子を頬張っている。


 「危ないなあ。女の子が傘振り回すもんじゃないよ」


 そうやって諭してくる相手を、雑誌やテレビで何度も見た。


 同い年とは思えないほど綺麗な容姿に、日本人離れした長い手足。

 

 片手で掴めてしまえそうな程小さな顔を、間違えるはずがない。


 「ルナ…?」


 日本が誇る人気モデルの、ルナ。

 未来のスーパーモデルと謳われている彼女が、咲の部屋で寛ぎながら、スナック菓子をバリバリと頬張っているのだ。


 

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