土砂降りの喫茶店で鳩時計が二十三時を告げる事情
それは、本当に何の変哲もない七月中旬、金曜日の夜のはずだった。
とはいえ、いつもの金曜日であれば、あたしは都内でダンスレッスンや歌の稽古、もしくは金曜日だけにどこかでライブがあるなど、忙しない週末を迎えてることの方が多い。だけど今週に限っては、愛花ちゃんと御咲ちゃんが出演しているドラマの撮影があるとかで、二人とも都内のスタジオに籠ってしまった。残されたのはあたしだけということで、ダンスレッスンも歌の稽古も中止。それならゆっくりと自宅で……と思ってた矢先に、担当編集から『プロットいつあげてくるのよ?』と催促の電話を受けたのが昨晩のことだったんだ。
あたしは今、鎌倉市内にいる。繁華街でも海沿いでもない、鎌倉山の上。
喫茶店にかけられたレトロな鳩時計は、間もなく二十三時を指そうとしていた。今時鳩時計かよ?と思ったことは過去に何度かあるけど、今となってはもう見慣れてしまったので、それについて何か注文を出す予定はさらさらない。そうこうしていると突然扉が開き、鳩がぽっぽと出てきて、ちょうど二十三時になったことを知らせてくるんだ。あたしは何度見ても奇怪に思えるその光景に、思わず目を丸くしてしまう。別に驚いたとかじゃなくて、ふとこう思うことがあるんだ。
あの鳩、焼いたら実は美味しかったりするのだろうかって。
「ねぇ悠斗。コーヒー淹れたから飲む?」
「おお、ありがと。……って、そうじゃなくて!!」
尚、外は大雨。二時間くらい前から降り始めていて、気づくとあたしは完全に帰宅する機会を逃していた。
「本当にどんな時間に飲んでも美味しいよね。このブレンドコーヒー!」
「ああ。それは俺も店主として素直に認めるが、どうしてお前が勝手に厨房に入って、呑気にコーヒー淹れてるんだよ!?」
「あたし、悠斗が小説書いてる時の真剣な表情、大好きだよ!」
「書くことが俺の今の仕事だからな! じゃなくて、お前の方は……」
「ねぇ、こうしてるとあたしたちってさ、若い夫婦みたいじゃない?」
「少しは人の話を聞けよ〜!!」
その悠斗の反論はおかしい。あたしは悠斗の言葉に対してちゃんと反応して返しているつもりだ。会話が成り立っていないように見えてしまうのは、あたしの気持ちを全く与してくれない悠斗のせいだと思うんだけどな。
「そんな催促が一度あったくらいでプロットが出来上がったら苦労なんてしないわよ」
「俺が廣川さんに聞いてる限りその催促の回数はどう考えたって間違ってる! 少なくとも二度や三度じゃないだろ! 事実、半年以上も続編を放置してるわけだし」
「だから今晩はこうして鎌倉の山の上までわざわざやってきて……」
「わざわざやってきて、何も書かずにコーヒー淹れてるわけだな?」
「だって美味しいんだもん……」
あたしは透明のコーヒーカップを手に掴み、そこへ顔を埋めてしまう。本当に美味しいものは美味しいし、書けないものは書けないのだ。突然そんな不変の原理を変えろと言われたところで、すぐに変えられるはずもない。光の速さは常に一定だって、悠斗も理科の授業で習ってるはずだよね。
廣川さんから催促は、あろうことか悠斗へも電話があったらしく『悠斗君の彼女にもちゃんと原稿書くよう言ってあげてよ!』と、あらゆる方向で間違った伝言が悠斗の耳へ入ってしまったらしい。笑いを堪えるのに必死だったとさっき悠斗が言ってたけど、その話のどこが笑い話なのか、あたしにはちっとも理解できなかった。人の不幸を喜んで笑うとか、可愛いレディーに対してあまりに冷たすぎやしないかな?
「それより悠斗の方はどうなのよ? 例の純文学の方、ちゃんと書けてるの?」
「ああ。夏乃が続編を書かない分、俺の小説の中に夏乃の小説の登場人物を織り交ぜながら書いてるつもりだ」
「へぇ〜。……ねぇ、後でちょっとだけ読ませてよ」
「別にいいけど、まだ書きかけだぞ?」
とはいえ、特にあたしの小説の登場人物がどうとかはあまりどうでもよかった。もちろんあたしの小説が悠斗にどのように読まれ、それがいかに消化され、悠斗の血や肉となっているのか、その点についての興味はあった。だけど間違えなく悠斗は悠斗で、あたしはあたしだ。あたしの小説の登場人物がどのような形で生まれ変わっていても、それはもうあたしの世界の住民ではない。あたしはそんな風に思うんだ。
……じゃなくて、あたしが知りたかったのは悠斗の答えの方だ。
御咲ちゃんの話では、あれからすぐに悠斗に別れの告白をするつもりだって言っていた。御咲ちゃんの出した決断を悠斗はどう受け止めるんだろうって、それが知りたくて仕方なかったんだ。悠斗の今回の小説は、愛花ちゃんへの愛をカタチにしたものだったはず。であるなら、御咲ちゃんが導いた結論がその小説に影響しないはずもない。
あたしなら間違えなく目に見える文章として、カタチになってしまうだろう。
「ねぇ悠斗。結局ミサ……」
「それより夏乃、今日はどうするつもりなんだ?」
「……え?」
あたしが彼女の名前を出そうとした瞬間だった。何一つ変哲もなかったはずの夜が、一瞬にして長い夜へと変わってしまったんだ。あたしは答えを用意する暇もなく、突然ぷつんと音を立てて、冷房や照明、そして冷蔵庫の音なども全て消えてしまった。
「え、嘘。停電!??」
「あ、ああ。そのようで」
夜は二十三時過ぎ。何もしなくても静かだった喫茶店に、より大きな雨音だけが響き渡ってくる。
「てかさすがにそろそろ帰らなきゃ。終電の時間になっちゃうよ……」
「それなんだが……モノレール、大雨の影響で止まってるらしいぞ」
「はい!??!?」
ここは鎌倉山のてっぺんに程近い場所。こんな土砂降りの中、モノレールの駅まで辿り着くのも一苦労だと思うけど、駅に辿り着いたところでモノレールが動いていなかったら何も意味がない。そうこうしているうちに大船からの東海道線の終電は無情にも発車してしまうだろう。
「何でそのことをもっと早く教えてくれないのよ!!」
「俺も今インターネットでそれを確認したところだ。仕方ないだろ?」
「…………」
悠斗のパソコンはノート型のため、今でもバッテリー駆動で画面に灯りが点いていた。とはいえルーターなどは停電の影響で止まっていて、今はインターネットに繋がらないらしい。
いやいや、今は悠斗のパソコンのことなんてどうでもよくて!!!
……あたし今宵、悠斗の家から出られない?????
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