第2話 慈海

「どうも記憶が違う様だな」

 立花という刑事は煙草でもくゆらせる様な雰囲気を醸し出していた。

 すっかりベッド状態になった安楽椅子の上で、二十歳の嗚呼琉が下半身に薄いブランケットをかけられながら、浅い眠りに入っている。

「大体、十五歳の頃の記憶を呼び戻しているはずなのに、何故、十歳の記憶を思い出しているんだ」

 私立大学の超心理学研究室では、背広の上に白衣を羽織った教授がどうも居心地が悪そうな表情でいた。

「記憶の混乱かもしれない」教授はレンズの厚い眼鏡の位置を手で直した。「誘導にわずかな不備があったかもしれないが、今度は大丈夫だ。私は専門だ」

 この研究室にいるのは被験者の嗚呼琉と、超心理学部顧問の阿部教授、刑事の立花。嗚呼琉の両親。そして三人の超心理学研究室所属の学生だ。

 室内は照明の明度を減らし、薄暗い。

 ゆったりとしたヒーリング系のBGMが研究室の空気、雰囲気を支配している。

 立花は心理学系の研究等には立ち会った事がない種類の人間だ。

 だが、この部屋の雰囲気は自分の目的にとってこれで正しいのかという疑問は抱けていた。

「失敗は許容出来ませんよ、阿部教授」

 立花は退行催眠状態にあるはずの嗚呼琉の横から離れて立っている。

 今は阿部が嗚呼琉のほぼ寝そべった安楽椅子に最も近い所にいる。

 この退行催眠実験は警察にとっては非常に重要で、そして本道ではない。

 嗚呼琉が十五歳の時、轢き逃げにあったのだ。正確には轢き逃げ未遂にもならない刹那的なすれ違いだ。

 問題はその嗚呼琉と凄まじいスピードですれ違った乗用車が、五年前のある強盗殺害事件に重要な関与があるらしいという点だ。

 運転手が犯人と判明すれば、アリバイが崩せる。

 嗚呼琉は十五歳の時に、その銀色の乗用車に路上で轢かれそうになった。

 怪我はなかった。他に人目もなかった。監視カメラも近くにない。カメラ式のドライブレコーダーもない時代だ。嗚呼琉が唯一の目撃者だ。

 嗚呼琉は当時、その乗用車のナンバーを憶えた、と家族に話していた。

 だがすぐにそのナンバーは忘れてしまったとも。

 当時はその轢き逃げ未遂事件は誰の注目も集めなかった。

 五年後の現在、ようやくその強盗殺害事件の有力容疑者が特定され、その男の当時のアリバイを崩す為に、彼が自分の車で犯行現場から逃走する時に唯一、接触した人間に一縷の望みを託す事になった。

 五年前の嗚呼琉だ。

 しかし、捜査協力を頼まれた五年後の嗚呼琉も、轢き逃げ未遂をした乗用車のナンバーを今更、思い出す事は出来なかった。

 捜査本部が退行催眠によって、嗚呼琉に轢き逃げ当時の記憶を思い出させるという手段を選んだのは、捜査の深刻な停滞があればこそだった。

 嗚呼琉の精神状態を五年前のそれに戻すのだ。

 十五歳の轢き逃げ当時の精神、記憶に戻す。

 これは勿論、正式な捜査手順ではない。

 大体、催眠術によって得られた情報など、正当な証拠として扱われるものではない。これが信用のおける、と科学的な保証があれば、警察捜査の発展に大いに役立つだろうがそうではない。

 その記憶の吐露が真に思い出された真実か、それとも催眠術の産物である妄想かを判別する手段がないのだ。

 この様な証拠は公判を維持出来ないだろう。

 しかし、捜査本部の焦りの色は濃かった。

 それを直接の証拠に出来なくても、捜査の方向性は間違っていないという精神的な保証に出来るのだ。

 たとえ正当な証拠として扱えるものでなくても、犯人のアリバイを崩す事が出来たというイニシアチブは大きいはずだ。捜査本部を支配しているムードは変わり、捜査員達は生命感を取り戻すだろう。犯人を特定すれば、その外堀埋めに集中出来る。

 立花は二人以上のチームで活動する事が多い刑事では珍しい、単独行動の捜査員だった。バディがいないのだ。

 バディは彼の性分には合わなかった。

 捜査本部の意向でなければ、この様な研究室に出向く任務を拒否していただろう。

 嗚呼琉とその両親を呼び出して、退行催眠を受けさせる為にこの研究室に出向させるという任務は彼のスタイルではなかった。立花はあくまで『現場』の男だった。

 大体、この退行催眠とやらが失敗して嗚呼琉の精神に何かしらかのデメリット、トラウマ等を与えたら、誰が責任を取るというのだろう。

 捜査本部ではないはずだ。彼らは立花に責任を負わせる為に彼自身がこの実験を企画して実行させた、という体面にするのだろう。捜査本部のリーダーはその様にして出世してきた男だと立花は知っている。

 阿部教授はアール・ヌーボー風に飾られた硝子の菓子箱から、マシュマロを取り出して口に含んだ。

「続けてくれ」立花は気乗りのしない仕事だが続けようと思った。「今度はちゃんと十五歳の轢き逃げされそうになった時の事をきちんと思い出させてくれ」

「解っている」阿部教授はもう一つのマシュマロを口に放り込み、歯応えのないそれを噛みしめた。唾液と混ぜて溶かし、口の中を空にする。「続けよう」

 退行催眠とは催眠術の一種だ。

 催眠状態にした被験者の過去の記憶を呼び出して、眠りの中で再現させる。

 題目によれば被験者自身が忘れている記憶すら再現出来る。

 時をさかのぼれば前世すら、というのがこの超心理学部の退行催眠の主たる使い道と知り、立花は気が滅入った。

「嗚呼琉君」と阿部教授はほぼ平坦な安楽椅子に腰掛けたアルビノの青年に再び語りかけた。「君の記憶は君が一番幸せだったろう年齢へと移ろいゆく。……今、君は十五歳だ。十五歳の記憶に一番鮮明に残った出来事を君は思い出す。憶えているだろう。あの日の太陽を……」


★★★

 薄曇りの中の太陽を仰ぐ。

 最近、イーグルスの音楽が再評価され、世界的に流行り始めている。

 嗚呼琉が丁度興味を持ったのと同じ時期だ。

 またか、と十五歳の嗚呼琉は思った。

 自分が興味を持った事柄が自分の知らないところで世間の流行になるという体験をしたのはこれが初めてではない。勿論、嗚呼琉がネットを使って発信したりするわけではない。

 いつのまにか流行るのだ。

 水面が揺らいで風の輪が広がる。

 そんな感じだ。

 風が吹いたから波が起こるのではない。

 最初に嗚呼琉が中心にあり、そこから見えないブームが広がっていく。そんな感じだ。

 自己中心的な思想だが、それで自分が偉いとか特別だとかと思ったわけではない。

 世界とはそういうものなのだ。

 嗚呼琉はただそう思っていた。

 今考えるとUFOブームもそうだったのだろうか。

 自分の他に十歳の頃のあのUFOを同時に目撃していた人間がいたのを知ったのは、嗚呼琉が十五歳になってからだった。

 彼女の名前は慈海(じみ)。

 嗚呼琉と同じ十五歳の、毛先を尖らせた黒髪の、決してスカートをはかないユニセクシャルな少女だった。

 慈海という名前は英語のJimmyを連想させて、女性にしては変に思えるかもしれない。

 しかし、この時代は既に洋風の名前に漢字を当てて、異国人かアニメやゲーム等の登場人物の様に発音させる風潮が日本に広まっていた。言ってしまえばこの自分の嗚呼琉という名前もその範囲内だ。

 それに日本の漫画やアニメ、ゲームを好む外国人のファン層が、憧れのあまりに日本人風な名前を息子や娘につけるという逆転現象が起こり、今や、名前というものは国境を越えて、それだけで国籍、性別を特定出来るものではなくなっていた。

 慈海とは、嗚呼琉が「住んでいる」と言っても申し分ない病院に時折訪れる通院者だった。

 彼女は月に二回、検査に訪れる。

 その理由は訊いた事がない。訊くのが必要とも思わなかった。

 この様に嗚呼琉の人間関係は大体において、希薄なのだ。

 自分も彼女も長く生きられない人間なのでは、という直感故の感情なのかもしれない。

 いつ会ったか、初めて会った時のシチュエーションも憶えていない。

 薄曇りの日。彼女との会話の記憶はいつも病院の屋上でだった。

 何気なく子供の頃に見た空の景色についての話題になった時、自分が見た、あのUFOの事を話したのだ。

 すると慈海も、自分が十歳の時に見たというUFOの事を語りだした。

 夕方の朱の空。丘の上から見た金色の細長い光。

 左右へと揺れる光。

 雲の中へと消える

 慈海が語る風景は嗚呼琉に既視感を覚えさせた。

 嗚呼琉は慈海に自分の記憶に基づく幾つかの質問をし、確信した。

 嗚呼琉と慈海は同じ十歳の時、別別の場所で全く同じUFOを目撃したのだ。

 違う場所にいる人間が同じ月を見ていたかの様に。

 嗚呼琉は彼女と秘密を共有しているのだという温かい気持ちになった。

 だから足元にある紙くずを拾い上げた。

 それを左手の痩せた白指でつまんで、彼女の眼の前にかざす。

 気を凝らした。集中し、心の中に並んだ小片の整然たるパターンを一斉に動かすイメージ。

 紙くずの中央が赤い炎を上げた。

 着火物など何もない。

 指を離した紙くずは煙と共に、空中で赤い炎に舐め尽くされた。

 発火能力(パイロキネシス)。

 慈海は驚いた。

 そして笑った。

「スプーンも曲げられるの?」

 慈海はどんなトリックなの?とは訊かなかった。

「スプーンを曲げる時は一斉に同じ方向にスプーンの分子を動かすイメージかな」

 嗚呼琉は親にも話した事のない、自分の能力を素直に説明した。

 嗚呼琉は感動していた。

 秘密の共有。幸せだ。それは裸の無防備な自分をさらけだしたかの様だった。

 それは親友という関係以上のものだった。

「なんでこんな凄い力を持っているのに、周りの人には誰にも教えないの」

 そう慈海は訊いた。

 嗚呼琉は昔、TVで観たある超能力者にまつわる話を彼女に話した。

 昔、日本で全国的な超能力ブームが起こった時の話だ。

 大勢の少年少女達が超能力に眼醒め、マスコミはそれをこぞって特集した。

 TVで、雑誌で、新聞で、連日、大人は金属のスプーンを自由自在に曲げる年少超能力者達を煽り立てた。

 日本人は超能力ブームの狂乱に躍った。

 だが、ある日、一人の超能力少年の不正が発覚した。

 それを機に日本人は反超能力ブームへと転進した。

 マスコミの掌返しは早かった。

 超能力少年少女の全てがインチキだと決めつけられた。

 彼らは今まで手放しで新世界の民の様に持ち上げていた大人達から、同級生から、一斉に投石の如き激しい非難を浴びせられた。

 子供達は心を傷つけられた。

 ある一人の少年は最も理不尽でつらい非難を受けた。

 少年が超能力者として世間に囃し立てられていた時、幾つかの宗教結社が彼を『神の子』として自分の宗教に入る様に勧誘してきた。少年は入信しなかったが、それらは全く勝手に自分達の未来の理想として、シンボルの様に、宣伝塔の様に彼を扱った。

 反超能力ブームへ日本が転進した時、一番、酷い言葉を投げつけ、非難したのがその宗教団体だった。

 彼らは少年を裏切者、自分達を欺いていた悪魔という言葉で一方的に攻撃し、少年とその家族を大大的に罵った。

 近所に酷い言葉による貼り紙が貼りまくられ、家の窓に投石されない日はなかった。

 無言電話が日に百回以上かかってきた。

 少年の家族はその非難の酷さに転居せざるをえず、ひっそりと隠れて暮らす事を余儀なくされた。

 嗚呼琉はこの話を昔から知っていたから、自分がこの超能力を持つと気づいた時からそれを、誰にも、親にさえ話さずに生きてきたのだ。

 今、それはタブーではなくなった。

 慈海。彼女の存在は嗚呼琉にとって太陽となったのだ。

 思春期であるお互い。嗚呼琉が彼女に恋心を抱く様になるのもそう遅くはなかった。

 ある日、慈海は彼女も持っていた特殊な能力を嗚呼琉に打ち明けた。

 夕焼けの病院の屋上で、彼女は金網のフェンスによりかかる嗚呼琉をじっと見つめた。

 オーラが見える、と彼女は言った。

 人を取り巻くコロナの様なものが見えると。

 それに色はついていない。しかし、人によって色彩の様なバリエーションが感じられる、と。無色なのに色が感じられるのだ。まるで音に色がついているかの様に見える共感覚の如く。

「あなたのオーラは眩しいわ」

 慈海は嗚呼琉のオーラが何色かは教えてくれなかった。

 オーラは世界がその人物に及ぼす影響力と、その人物が世界に及ぼせる力の境界がにじみとして見えるのだと思う、と慈海。

「あなたの寿命はとても永いのかもしれない」

 慈海は、地味に残酷な言葉を嗚呼琉に告げた。

 百メートル走もまともに走り切れない脆弱な嗚呼琉に。

 その時、嗚呼琉達はUFOに気づいた。

 いつのまにか晴れていた夕焼けの中、自分達の頭上遠くに浮遊する、闇の如く黒くて、シンメトリーな形をしつつ歪(いびつ)なにじみを。

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