サーバー室の悪魔

 一度流れると消せない、情報の海。消せないはずなのに、消えたように見えたりしながら、無数の人の真偽の定かでない記憶を綯い交ぜにして均衡を取る世界。触れると微妙に振動していて、そこに機械が微かな音を立てて居る。僕が放った言葉はすうっとその囁くような無数の音たちに吸い込まれた。


「ようこそ、この世界へ。」


 * *


「選択的記憶消去」という言葉が学内で囁かれるようになったのは確か梅雨に入る前の頃だった。工学部しかないために男子大学生しか見かけないキャンパス内の廊下に女子高生を見かけることが増えたことも噂を不穏に思わせた。 学園ではオープンキャンパス以外にも大学見学会が不定期に開催されるため、制服の高校生が居ることもそう珍しくはなかったが。女子高生がサーバー室方面へ入っていくという噂がいくつかの研究室を中心として上級生の間から漏れるようになったのだ。


 サーバー室といえば、通年冷房での空調管理のもと、埃を寄せないための土足禁止のカーペットフロアに、棚に薄い形のコンピューターが幾台も差し込まれたラックが天井まで聳え、ネットワークケーブルが束になってうねる様に配され、あらゆる小さな緑や黄色や赤のランプが通信状況を示してうごめいている部屋である。

 文系哲学科から理転して工学部へ編入した僕には、いかにもハッカーの巣窟という心躍る部屋だが、密集した機器から放たれる熱量に、24 時間通信障害に耐える部屋の様は、多くの高校生が知って訪ねるとは言いづらい場所だ。

 そこに普段居るのは・・・悪魔と、その研究室の面々ぐらいのはずだが。


「すっきりしたー。なんだか、嘘みたい。」

「ね。しかもちょっと格好よくなかった?」

「ちょっと変だけどね。ま、大学の先生だし、個性的っていうか。」

「なんか優しいし。」


 僕は図書館で借りた本を小脇に挟み、廊下を行く制服の女子の後ろを抜かすに抜かせず、普段耳慣れないおしゃべりを聞いていた。罪悪感は別にない。僕が読んでいた少女が出てくる古典の怪奇小説に比べて、ちっとも凄味がない。もっと毒のある話題ではないのかと肩を竦める。


 僕は分厚い本の箔押しの題字が廊下の暗さに時折光る様に目をやった。角が脆くなり、背の折り目がひび割れるほどの年を経て、厳かな書体が嵌っている。狂っていると称えられる巨匠の代表作の中でも一際異端で、18 世紀の科学発展と文化がせめぎ合う時代に発禁処分の歴史を持つ本。週末にゆっくり味わうか、今夜手を付けてしまうか、うっとりとそちら側へ行った。


「あ、やばい、忘れたかも。」

「え。何。」

「ハンカチ。」


 唐突に二人が壁になる。そんなことも予期して距離を取っていたのに、妙にがっかりして借りた次の本へ気が向き目の前を一時忘れていた。


「わっ。」

「きゃっ。」

 抱えた本の一冊がせり出して前方へ飛んだ。その近くに一人が手にした紙がヒラヒラと舞った。

「すみません。」

 本を先に拾われてしまったので僕が変わりに紙を拾う。


『選択的記憶消去後の注意事項』


 僕の期待した文字が眼前に飛び込んだ。差し出すために半面向きを変え素早く裏を確認すると、『同意書写し』という題字の下方に署名が二つ並んでいた。本人と保護者欄に妙に似ている文字が。18 才以下だよね、高校の制服ってことは。少なくとも 20 才には届いていない


「あ、ありがとうございます。」

 二人の一方が僕の本を、もう一方が紙を受け取ると、慌てて来た道を引き返していった。

「綺麗な人ー。でも怖くない、あの本。」

 真っすぐな廊下を反響する声は小さくなって僕の元へ届く。僕の腕の中では、次の怪異小説の厳しい文字が並んでいる。


 彼女らが戻るサーバー室には悪魔が居る。そう呼んでいるのは今のところ僕らだけだが、学生にとって教員ほど格好の話題はなかった。課題や実験レポートで長い時間をこの建物で過ごす際に世話になる先生、そして研究室へ配属されると毎日関わる先生。


 悪魔と一部で呼ばれる Z 先生はサーバー室の管理者を務める准教授だ。ネットワークセキュリティに通じる研究をしているらしい。彼の話題は突出して多い。この春に他大学から編入した僕にとっても大きな興味の対象だった。


 過去の学園と海外を結ぶ大きな事件に加担したとか、人を操る研究をしているとか。都市伝説、尾ひれのついた噂、と切ってしまうにはあまりに早計で、大学という機関には相応の歴史と力がある。書物が発禁処分となったり、知識人が真っ先に調べ上げられるのは、脈々と続く世の常だ。小説で読んでいる出来事は、もっと複雑怪奇な現実があってこそ生まれ得る。


 僕は階段を上り、馴染みの研究室を訪ねた。編入間もなく、環境に慣れるためという先生方の厚意から仮の席を設けてくれたのだ。僕用に壁から LAN ケーブルを引いてくれた先輩がこちらの机までしゃがんだまま歩み寄り、ひょこっと顔を出しておどけた。先輩から手渡されたケーブルの端を自分のノートパソコンに差そうとして思い留まる。このケーブルの通信経路、Z 先生が設定しているって聞いたなと。


 あらゆる僕らのノートパソコンへ流れ込み流れ出す情報という粒。ここでのそれを支配しているのは・・・悪魔。そう呼ばれているだけある、と思った。仕方ない、誰かには委ねないといけないのだ。それが、善しか悪しか知らぬけれど。


「悪魔の祖父が病院長らしい、何でもできそう、怖っ。」

 サナトリウムを持っている、と先輩から聞かされた。読んだものは精神が狂うと言われる有名な奇書を愛読する僕からは、それも Z 先生に興味を惹かれる一因であった。


「前期あの人の講義取ってないよな。」

 僕らは、悪魔と言ったり、あの人と呼んだりする。廊下の女子高生の会話を話題にすると先輩は僕に履修状況を尋ねた。

「はい、科目構成が違うから単位互換がきびしくてまだ受けるべき講義がいっぱいですし。」

「じゃあ、聞きに行こ。何か聞いても成績影響しないから。」

 研究室に配属されるまでの間、単位と成績はぼくらの最大関心事項の一つだ。


 先輩の長身を追いかける。色白の先輩は廊下の暗さによく目立った。サーバー室は廊下の突き当り。階段の陰にある。夜であれば古い蛍光灯が白く照らすだけのコンクリの廊下を真っすぐ進み、階段の向こうに吸い込まれ、忽然と人が消えたように見える。

 良いですね、それ、怪談らしくて、と春にここへ来てすぐに廊下を案内してもらった僕は言った。

 階段の怪談とか言う奴もいるけどさ、梅雨の中間試験前は恐怖。 アクセス集中して出た通信障害直すのに寝泊まりしている奴らがサーバー室から発する悲鳴。奴らがウロウロしている感じとか、よっぽど怪談だから。と先輩はげっそりした顔を作って見せた。これは実は僕を喜ばせた。ここには、僕が小説で愉しんだことに通じる世界がある。編入早々にそう感じた。


「あれ、どうしたの?めずらしー。」

 金属製のサーバー室の扉を開ける。天井まで聳え並ぶサーバーラックの陰から現れた Z 先生は、講義を既に履修して卒業研究の学年にある先輩を即座に見てとった。

「うふふ。君、僕の講義、わりと良い成績だったよね。ちょうどいいや、ネットワーク設定していく?」

 悪魔の人を試すような軽快で柔らかな声は、彼の紅いシャツに合っていた。

「あ、自分のとこで精一杯なんでいいです、遠慮しまーす。で、選択的記憶消去って何ですか、先生?」

 先輩のこの身のかわしはよくできていると思う。何もかも素早かった。

「・・・君たちもしていく?」


 冷房が効いたサーバー室の空気が急に纏わりついて背筋を伝った。同時に怪異小説を読むときに似た愉悦がふつふつと沸いた。

「生きてたらさ、忘れたい記憶とかできるでしょ。うまくいったら選択的に消せるの。」

「うまくいかなかったら。」

「たくさん消える。」

 先輩がひぃっと声を出して大げさにのけぞる。いつもの大仰なリアクションだが顔はいつもと違い険しかった。

「と言いたいけれど、何も消えない。ようにしてるの。その方が安全だから。」


「一応まともなんですね。」

 僕が横から口を挟むと先輩がさらに険しい顔をしてこちらを見下ろした。

「君は?あぁ、Y 先生のとこに来た子だね。ふぅん、女の子だったら優しくしたいけど。いいね、その毒舌。」

 先輩が隣で首を振って僕と Z 先生を見比べて、それから口を結んで前を向いた。どこから何を言っていいのか困惑しているのだろう。まぁ、こういう人らしいですね、と僕は胸中で相槌を打った。多分ややこしいのは、先輩は諦めているが、僕は余計に興味が沸いてしまったことだ。そして悪魔の方も。


「消したい記憶ができたら来るといいよ、代わりに消す記憶をデータとしてもらう。良い研究材料だからさ。」

 悪魔は実に悪魔らしく話した。

「先生、それ僕らに言っていいんですか。」

「そうだね。必要になればその瞬間を消せば良いからね。ついでに色々。うふふ。」

 先輩は無言で一礼するとくるりと部屋に背を向けてドアを開けてさっと外へ出る。僕も向きを変え後ろに続くとすっと背後から肩へ手が止まった。


「君は、見込みあるからまた来て。」

 そしてそっと囁いた、僕だけへ聴こえるように。


 ―― これは、Y 先生のためでもあるから。


 * *


「あれ?二人でどっか行ってたの?新しい研究図書入れたよ。」

 研究室に戻るとワンピースを着た Y 先生が振り返る。ポニーテールが揺れる。後ろからみても振返っても未だ学生に見えるから不思議だ。この世界は年が止まっているのではないかという人ばかりである。研究に打ち込み、学生と関わっているとそうなるらしい。


「散歩です。」

「散歩でした。」

 僕は先輩に続いて答えたが、先生は先輩の様子をじっと見て何かを感じとったらしい。

「なんか疲れてない?」

「悪魔のとこ行ったんで。」

「え、あぁ。」

 学生情報の一部を僕らはここではよく話した。Y 先生は僕らが Z 先生を悪魔と呼ぶことを知っている。しかし、先輩は今日の説明を放棄し、卒業した下宿生が置いていったソファになだれ込んだ。


「わぁ、また何か本借りてきたんだ。」

 先生は目を輝かせ僕が机へ置いた表紙へ目線を落としたが、すぐに顔を上げて続く話をしなかった。先生は本が好きだが一定以上のホラーは読めない。


 ―― 僕が消してあげたいの。


 僕の耳にはサーバー室で聞いた冷たいような甘く優しいような哀しいような、いずれかわからぬ悪魔の囁きが残っている。 今日の本当のホラーは何だろう。


「なんか嬉しそうね。」

「はい、悪魔の所へ行ったので。」


 先生は僕をじっと見ると、「人間的なホラーは聞けるよ。」と首を傾けた。Y 先生のポニーテールの端っ子が宙を揺れる。好奇心で輝く大きな丸い黒目を見返しつつ、今日の話はその域を超えた重みがあることを僕は感じ取っていた。


 梅雨が近づいた空は初夏の陽光を傾かせ小雨を降らし始めていた。

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書庫の断片 露草 ほとり @fluoric

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