解体されそうになった原爆ドーム
最初、原爆ドームは、残されずに、解体される予定だった。もしかしたら今、原爆ドームは存在しなかったかも知れない。しかし、1歳の時に被爆した、中学生の日記によって、原爆ドームの保存が決まったのだという。原爆投下の後、広島産業奨励館(原爆ドーム)は、しばらく放置されていた。倒壊のおそれがあったのだろうか、いや、それよりも、放射能を含んだ危険性の高い建物だったので、取り壊しを検討していたのだろうか。さらに、一部の市民からは、原爆ドームを見る度に、原爆投下時の惨事を思い出すので、取り壊してほしい。という意見もあったという。しかし、1歳の時に被爆した、楮山ヒロ子さんの日記によって、原爆ドームの保存運動が開始された。彼女は、1歳の時、平塚町の自宅で被爆、1960年4月5日に白血病で亡くなった、16歳の若さだった。原爆ドーム(広島産業奨励館)の竣工からちょうど45年経った日だった。残された日記の1959年8月6日のページには、「八時十五分、平和の金が鳴り外国代表のメッセージを読み終わり、十四年前のこの日この時に広島市民の胸に今もまざまざと、記憶されている恐るべき原爆が四年たった今でも、いや、一生残るだろう。〜あの痛々しい産業奨励館(原爆ドーム)だけが、いつまでも恐るべき原爆を世に訴えてくれるだろうか」と記されていた。ヒロ子さんの日記に心を打たれた、映画「千羽鶴」の制作をきっかけに作られた「広島折鶴の会」の子どもたちは、いち早く原爆ドームの保存運動を始めた···。投下された原爆によって、放射能汚染された原爆ドームだったのだが、保存が決まった時、やはり反対もあったのだろうか?しかし放射能汚染されているのは原爆ドームだけではない。広島市全体が放射能汚染されているはずだった。この先100年間は緑が生えない(育たない)と言われたほどだったので。しかし、原爆投下から1ヶ月経った時、原爆ドームが放置されていた9月17日に枕崎台風が広島市を襲った、原爆投下で悲惨な目にあった広島市にも台風の被害が出て、ダブルパンチの状態だった。だが、この台風が放射能汚染された広島市を洗い流した為、人が住めるようになったという。100年間、緑が育たないと言われたが、70年経った今、広島市内に緑(草木)も結構存在している。2015年4月5日、日曜日。朝からあいにくの雨だったのだが、完成から100年経った広島産業奨励館を見ようと広島へ。もう何度も訪れているのだが。100歳になった産業奨励館は、何も変わらないと思ったのだが。桜が見頃の平和記念公園から見た原爆ドーム、いつもとは違っていた、補修工事をしていた、どうやら健全度調査をしていたようだった、人間ドックみたいなものらしい。永久保存が決まった産業奨励館(原爆ドーム)、しかし原爆の爆発による衝撃をまともに受けて、損傷もかなり酷かった、さらに1960年代には風化が進んで、崩落の危険も生じた。これまでに、幾度も保存工事をしていたようだが。原爆被害から、これまで70年間、崩落もなく、持ち堪えてきたものだ。2001年3月に、震度5弱の地震が広島を襲ったのだが、原爆ドームは、大きな被害は無かったという。崩落の危機があった原爆ドームが地震にも耐えたのだった。やはり、保存工事を進めてきたからだろう。原爆ドームで、築100年経ったのだが、それよりも、かなり古い、老朽化した建物は、幾らでもある。2014年6月に、世界遺産に登録された、群馬県の、旧富岡製糸場も、その一つである。築140年も経っている。しかも、木造赤レンガ造りで、太平洋戦争の時は、防空壕の役目を果たしていた。戦争の被害は、さほど無かったようだが。世界遺産に登録される前、一度は訪れたのだが、木造とは思えないような、立派な建物だった。
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