もう一ヶ所の被爆地、長崎へ
これまでに広島を何度も訪れていたのだが、もう1つの原爆被爆地、長崎には、あまり訪れていなかった。長崎には、これまで2回程しか行っていなかった。終戦70年目ということもあるので、6月に長崎を訪れようとした。実は、長崎の軍艦島や高島炭鉱、小菅修船場跡等、明治の産業遺産として、世界遺産登録候補が挙がっていた。しかし、世界遺産登録に韓国が猛反対していた。韓国側からすれば、明治の産業遺産は戦時中に「朝鮮人が強制徴用された施設」であった為、つらい思いをしていたのだろう。しかし、7月に軍艦島を含む、明治の産業遺産は世界遺産に登録された。まだ、世界遺産登録が決まっていなかった6月初め、久々に長崎を訪れた。最初に訪れたのは、平和公園、平和記念像があるこの公園は、原爆が投下されるまで、刑務所が建っていた。因みに、広島は、平和記念公園だが、長崎は平和公園となっている。長崎刑務所浦上刑務支所で、今でも、刑務所が建っていた痕跡がある。公園内には、拘置所の遺構があり、外塀の遺構も見られる。1927年9月に新設された長崎刑務所浦上刑務支所、原爆投下時は、庁舎と周囲の塀は一瞬にして崩壊、瓦礫の山となった、唯一、炊事場の煙突1本が残ったという。刑務所内の職員18人、官舎住居者35人、受刑者81人の計134人が犠牲になった。広島に原爆投下された3日後の8月9日、11:03に、B29「ボックスカー」が広島に次いで2つ目の原爆(ファットマン)を長崎に投下。最初の投下目標は、小倉だったのだが、小倉上空に霞または煙が漂っていた為、投下目標確認を失敗した。当時、広島への原爆投下の情報を聞いた、八幡製鐵所の従業員が敵機が近づいて来る情報を聞き、新型爆弾を警戒して、コールタールを燃やして煙幕を張り、視界を悪くしたようだった。小倉上空で3回も爆撃航程失敗した為、燃料が少なくなり、余裕が無くなった。燃料系統に異常が発生した為、予備の燃料に切り替えた。その間に天候が悪化、日本軍高射砲からの攻撃も激しくなり、零式艦上戦闘機が10機も緊急発進したのを確認されたので、第2目標の長崎に変更された。長崎は、原爆投下を警戒していなかったのだろうか?平和公園にある平和記念像、北村西望によって造られた。神の愛と仏の慈悲を象徴し、垂直に掲げた右手は原爆の脅威を、水平に伸ばした左手は平和を、横にした足は原爆投下直後の長崎市の静けさを、軽く閉じた目は原爆犠牲者の冥福を祈っている。平和記念像は、3000万円(+台座は2000万円)の費用をかけて、4年がかりで制作された。すべて国内外から募金で集められた資金だった。平和記念像の顔を見ると、外国人のように見えたのだが、この像のモデルは、プロレスラーの力道山ではないか?と言う説があるらしい、しかし、はっきり特定されていない。平和記念資料館に行くと、広島同様に、被爆した品々が展示されている。その中に長崎に投下された原爆(ファットマン)の模型も展示されている。訪れた時は、濃い緑色をしていたのだが、最近になって(ファットマン)の本当の色は、黄色だったと言うことがわかったらしい。今は、黄色に塗り替えられているみたいだ。
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