竣工100年目の原爆ドーム
あれから月日が流れ、終戦から70年目の2015年を迎えた。やはり70年も経つと、戦争体験者の高齢化が目立ってきた。70年目のこの年はどんな年になるのだろうか?イスラム過激派組織によるテロが、世界中で立て続けに激化しているが、終戦70年目のこの年は、邦人も過激派組織の餌食になってしまった。なんとも言い切れない気持ちだ。戦争の引き金になってしまう恐怖を感じてしまった。戦争70年目のこの年、広島に再び訪れようと思った。最初は、8月の終戦記念日頃に訪れようと思ったのだが、4月5日に訪れる事にした。実は、この日は、原爆ドームが竣工100年目を迎えたのだった。つまり、100歳の誕生日である。チェコの建築家、ヤン·レツル氏の設計により建設され、1915年4月5日に完成した。ヤン·レツル(ヤン·レッツエル)氏は、1880年、オーストリア·ハンガリー帝国(現チェコ共和国)生まれの建築家。1907年にイタリアの都市を訪れた後、来日。横浜のゲオルグ·デ·ラランゲの設計事務所で働いていた。広島市では、日清戦争で大本営がおかれたことを契機に軍都として急速に発展していった。経済規模の拡大とともに、広島県産の製品の販路開拓が急務となっていた為、拠点として計画されたのが、ヤン·レッツエルが設計した「広島県物産陳列館」(後の原爆ドーム)である。1910年に広島県会で建設が決定、5年後の1915年4月5日に竣工、4ヶ月後の8月5日に開館した。レッツエル氏の生まれた、チェコの首都プラハのヴルタヴァ川の河畔には、原爆ドームによく似た、チェコ通産省庁舎という建物がある。広島県物産陳列館、今で言う物産展みたいなものを開催していたのだろうか?1921(大正10)年4月には、お菓子の博覧会(全国菓子飴大品評会)も行われていた。さらに2年前の1919(大正8)年3月4日には、日本で初めて、バウムクーヘンの製造販売もしていたという。原爆ドーム、最初は、原爆投下前まで、広島産業奨励館と聞いていたのだが···。最初は、広島県物産陳列館だった。1921年に広島県立商品陳列所と改称された。さらに1933年には広島産業奨励館と改称された。盛んに美術展が開催され、広島の文化拠点として大きく貢献した。しかし戦争が長引く中、1944年3月いっぱいで奨励館業務を停止した。その後、原爆投下前まで、行政機関·統制組合の事務所として使われていたという。チェコの建築家、ヤン·レッツエルの設計した、当時としては立派な建物だったのだが、完成から30年後に、まさか原爆ドームという悲惨な建物になるとは···。
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