いやな話

坂本梧朗

一話完結

 学会後の懇親会だった。O氏の勤める学園の付属研究所の教授も上座に座っていた。教授の目が0氏と合った。既に挨拶はしていたが、初対面ではあったし、情報収集も兼ねて話をしてもいいなとO氏は思った。(その時の0氏の気持には卑屈なものはなかったと言っておこう。)

 しかし、上座に座る人達の前に畏まり、酒を注いでいる二、三の人の形姿かたちを見ると、あそこではとてもまともな話はできないなとO氏には判断された。で、O氏は、俺もここはひとつビールでも注ぎに行って頭を下げておこうか、と考えた。O氏には研究所に移籍したい気持があったのだ。 O氏はそう考えると、機を伺うために、隣席の人との会話がちぐはぐになった。えい、早くやっちまえ、とO氏は立上がり、教授の前に畏まった。

「後で君のところにも回ろうと思っていた」

 と教授が言った。あ、それを待てばよかったとO氏は一瞬悔やんだ。何を言ったものかと途惑ったO氏は、自分が知っている研究所の教授の名前を出した。その人は自分が研究所に入れたんだ、と教授は鷹揚に応えた。O氏は言葉が続かず、とにかくビールを注いで、よろしくお願いしますと頭を下げた。O氏はそこで辞去すればよかったし、そうしようとも思ったのだが、話を交わしたいという最初の気持の名残が、もっと明確に言えば、この機会にもう少し自分を売り込んでおきたいという思いが腰を上げる動作をためらわせた。教授がビール瓶を差し出した。O氏は思わずコップを探した。見つからないことに不様さを感じると、ここはやはり辞去すべきだったという悔いが脳裏を走った。見かねたのか、教授の隣に座っている他大学の教授が自分のコップを飲み干して差し出した。「○○先生のコップで飲ましてもらいなさい」と教授はO氏に言った。そして、「これは―」という言葉でO氏をその教授に紹介した。O氏は自分を目下視する教授の口調と、一面識もない他人のコップに口をつけることに抵抗を覚えながら、仕方なく注がれたビールを何口かに分けて飲んだ。「おいしくなさそうに飲むね」と教授は不興気に言った。「お茶を飲むようにビールを飲むと言われます。どうも一気には飲めなくて」とO氏は反発の気持を笑顔に紛らせながら言った。隣の教授は笑ったが、研究所の教授は「コップ一杯ぐらい」と許さぬ声音で言った。そして、「後で君の席に行くから」と言ってO氏を追い払った。O氏は研究所の教授には頭を下げる気にならず、コップを差し出した隣の教授に、「どうも済みませんでした」と頭を下げて辞去した。

 バツが悪かったなと思いながらO氏は自分の席に戻った。やがて教授が座を立ち、宴席を回り始めた。教授の言葉を真にうけていたO氏は、教授が近くに来たのを見て、もう来るのか、意外に早いな、と思った。すると教授は向いの列にそれて、そこに座っている女性に、「あなたは挨拶に来てくれたから」と言いながら酒を注いだ。出席者の自己紹介が始まっていた。O氏の座っている列に戻ってきた教授は、O氏の隣の隣の女性の前に座った。手ぶらの教授はO氏の隣の人から銚子を手渡され、一杯注ぎましょうかとその女性に言った。そして彼女にいろいろ話しかけていたが、O氏の隣の人にその女性を自分の弟子だと紹介した。教授は最近したらしい外国旅行の見聞を得々と語り、女性は畏まって聞くようだった。その女性との話が終り、O氏の隣の人に銚子の礼を言うと教授は立上がった。いよいよ自分の番かとO氏が身構えると、教授はO氏の前を通り過ぎて上座に戻った。

 それは経過を考えれば十分予想されることだったが、肩透かしを食わされたO氏は、やられた、こんなことをするのか、とショックを受けた。O氏は屈辱感への反発から、自慢話の多い嫌なタイプの奴だと教授のことを思った。

 自己紹介が続いていた。一人一人が自己顕示の気持を気配りとユーモアでまぶしながら近況を語っていた。O氏は暗い怒りに炙られながら、何を言おうかと考えていた。〈ここにいる研究者連中の一大盲点を指摘してやりたい〉という気がしていた。ようやくO氏の番が来た。立上がったO氏は、自分は昭和戦前の文学を研究しているが、現在の日本社会に戦前との等質性を見、そのことに問題を感じている、と述べた。戦争への真摯な反省を欠いたために、現在も広範に見られる戦前に類似した政治・文化現象、戦前と共通する日本人の行動特性にO氏は苛立ちを覚えていたのだ。発言を終え、肩の力が抜け、楽になった気分で、しかしO氏は苦く気づかなければならなかった。教授に近づこうとした自分の行為のなかにも、おかみには逆らわず、その枠の中での自己の利益の確保には敏い、日本人の変わらぬ特性が発揮されていたことに。

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いやな話 坂本梧朗 @KATSUGOROUR2711

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