第7話:−196℃の決断
「ただいま」
家の玄関を
「ゼロ……?」
また俺のために風呂を準備してくれたのかと思ったが、何か嫌な予感がする。
俺は手に持っていた荷物を全て落として、風呂場に駆け込む。
「何……やってんだよ、ゼロ!」
開けっ放しの扉の奥、湯船の中に、ゼロが入っているのが見えた。
肩まで、どころか、顔の下半分まで浸かっている。
その光景が、風呂場に満たされた湯気でぼやけている。
「ゼロ!」
俺は服を着たまま浴槽に飛び込んでゼロを抱え、引き上げる。
湯に踏み入れた足が痛いほど熱い。ほとんど、熱湯のような温度だった。
人間の俺が入っても、健康を害するだろう。
「そん……な」
ゼロに意識はない。
『お前が水に入れねえように、オレは湯には入れねえ。アルコールが抜けて、酒じゃなくなっちまうからな』
そう、昨日彼女は言っていた。
俺はゼロを浴槽の横に寝かせ、シャワーで冷水を浴びせる。自分の腕や足にもかかっているが、何の感覚もない。
『……オレは、酒として失格だな』
『気にすんな、アイデンティティー、あるいは存在意義の話だ』
失格、存在意義。
それが何を意味するのか、俺にはわからない。
しかし、不安感だけが、重くのしかかる。胸の中で渦を巻く。
失うことの恐怖。金も、時間も、自分の命に対してさえ、感じてこなかった。
それが今、目の前から、心の奥まで突き刺さる。
『切羽詰まった時には、少し強引にしないと、動くものも動かねえそ?』
俺はハッとし、ゼロの心臓に手を当てる。鼓動がないことに一瞬焦るが、酒に心臓はない。だから心配はない。
「起きてくれよ……ゼロ」
俺はいつの間にか涙に塗れた顔を、彼女に近づける。
そして、口付け。
ほんのりと暖かいその感触が、今は何よりも不気味に感じられた。
口の中に広がる、微かなアルコールの匂い。今にも漏れ出そうなそれを、俺は彼女の体内へと吐き戻す。
息継ぎを入れて、二回、自分の命を分け与えるかの如く、吹き込む。
「頼むから、俺の前から……消えないでくれ!」
息の枯れた叫びが浴室にこだまする。王子様のキス、というにはあまりにも不器用で不恰好。
けど、それでいい。
俺は王子様でないし、彼女は、お姫様ではない。
辛口で、口の汚い、ただの酒なのだから。
「……レディーの入浴に乱入して、胸を触った上に唇まで奪うとは、オレが人間だったら重罪だぞ、お前」
「……ゼロ! 昨日自分から乱入しといて、それはねえだろ……!」
俺は目を覚ましたゼロをひしと抱きしめようとする。
しかし、ゼロは俺の顔面に手を当て、そのまま押し戻す。
「ったく……帰ってくんの早すぎなんだよ」
それは、彼女からの、初めての拒絶だった。
「ぜ……ろ?」
「別に死ぬ訳じゃねー。ただ少しアルコールを飛ばそうと思っただけだ」
ゼロは決まり悪そうに目を泳がせながら言う。あるいは、俺から目を逸らす動き。
こんなに、煮え切らない彼女も、初めてだった。
「……まあ、ついでに今のオレの自我も飛んでいくと思うがな」
「それって……! 今のゼロが消えるってことだろう⁉︎ だったら、自殺みたいなものじゃないか! どうしてそんなことを」
「そうすれば一緒にいられるだろ」
俺の激昂に被せるように、ゼロは小さく呟く。
俺と一緒にいるため……?
俺の疑問を待たず、彼女は続けて言う。
「オレは酒だ。オレの存在意義は、人を酔わせて虜にすること。だけど、今のお前はそれどころじゃないよな? 今は酒を飲めないし、健康になった後は、きっと酒を飲まなくなる。オレは、お役御免って訳だ」
だから、彼女は、今の自分を捨ててまで、別物になってまで、自分の酒としての存在意義を保とうとしたのか?
『そこまで無理して社会に合わせるとか、自殺志願としか思えねーぞ」
ゼロ……お前が言った言葉だぞ。
「違う! 俺は……!」
「お前にとっても良いことじゃないか? アルコールが抜けて生まれ変わったオレは、甘口で、上品で、お淑やかな『優しい女』になるかも知れないぜ? そうすれば心置きなくお前の欲望を満たし……」
「俺は……今のお前が好きだ!」
俺はそう言って、今度こそ彼女を強く抱きしめる。
決して、離さないように。その存在の、一滴も、溢さないように。
「俺は……辛口で、毒舌で、下品なギャグを言っては自分でゲラ笑いする、そんな『強い酒』が大好きなんだ! 消えるなんて言わないでくれ! もっと俺を……酔わせてくれ!」
俺はなんと情けない男だろうか。
これじゃあ、ただのアル中じゃないか。
それでも、俺がゼロに夢中になっていたのは事実だ。
こんなにも、愛おしく思うほどに。
ゼロは、今度は抵抗しなかった。代わりに、精一杯の罵倒をくれた。
「……マゾかよ、てめーは」
「じゃないと、陸上部長距離なんかやってられないよ」
「ブラック企業勤めも、だろ?」
いつも通りのやりとり、それが、いつも以上に嬉しかった。
俺は、たった一日の断酒に成功した。
********************
俺はゼロを風呂場に残して玄関に戻り、今日の買い物の一番の成果物を持って帰り、彼女の前にお披露目する。
「なんだこりゃ……? ゴムボートか?」
「惜しい、まあ似たようなもんだけど、これは子供用のビニールプールだ」
今日の買い物の最後に買った『子供向け』の商品。
俺は空気を入れ、浴槽の横に設置する。空気量を調整することで、ギリギリ収まった。
シャワーで中に冷水を入れ、完成。
「そして、今日からお前専用の水風呂だ。好きな時に使ってくれ」
「そうかよ。じゃ、ちょうど準備もしてあるし、遠慮なく」
ゼロはプールの中に入り、ちょこんと体育座りをした。
買って良かった。彼女の、こんなに可愛い姿を見られるなんて。
「ぬるい。おい、見惚れてないで、さっさと氷持ってこいよ」
「へいへい」
酷い言い方だが、俺は気にすることなく、冷凍庫からありったけの氷を取ってくる。
「おせーよ、さっさと入れろ」
「はいはい」
言われるがままに、俺は彼女の風呂の、水加減を調整する。
氷を取りに行くとき、パチャパチャと水を跳ねさせる音が聞こえた。
帰ってきて風呂の床を見れば、プールの周りに、水をこぼした跡が残っていた。
ゼロは、俺の見てないところで、密かに遊んでいたようだ。
良かった、気に入ってもらえて。
彼女の、居場所が出来て。
「オレ専用だからな。入ってくんじゃねーぞ」
「入らない……って言うか入れないよ。広さ的にも、温度的にも。ん? じゃあ覗くのは良いのか?」
「バーカ、ダメに決まってんだろ。ただし……お前は『のぞく』」
渾身のギャグが決まり、ニヤリと笑うゼロに対し、俺も顔を緩める。
ついでに、ズボンのベルトも緩める。
「……オレは酒であってオカズじゃねーんだが……良いぜ、オレを使うことを許可する」
「違うよ。折角用意しくれた風呂に、俺も入るだけだ」
俺は服を脱ぎながらそう返し、股間を押さえたまま、熱い湯の入った湯船に浸かる。
狭い風呂場をさらに狭くして、俺とゼロは、並んで座っている。
しばし、無言の時間が流れた。お互いに、自分の入浴を楽しんでいた。
「お前……こうまでして混浴したかったのか?」
「一緒に居たかったんだ。叶うなら、会社なんか辞めて、ずっとこうしていたい」
ゼロのからかうような呟きに、俺はノータイムで本心をぶつける。
返事に、頭に氷をぶつけられた。
「痛! 何すんだ! それに、風呂が冷えるだろうが!」
「お前は少し頭を冷やせ。それから……たまには、ぬるま湯に浸かるのも良いだろ」
「ゼロ……」
それっきり、彼女は俺に背を向けてしまった。
まったく……。
分かりやすい、照れ隠しだった。
「あ、忘れてた」
突然、ゼロが口を開く。
またとんでもない罵詈雑言が飛んでくるのではと身構える俺に、彼女は、気恥ずかしそうに言う。
「おかえり」
********************
翌朝。
「おい、起きろ、今日から会社だろ?」
俺は、ゼロに顔面を踏まれるという、大変有り難い起こされ方をした。
目を開けると、ワンピース姿の彼女が立っていた。スカートの中には、女子高生から貰ったあのパンツも見える。
やっぱり、少し地味だな。
折角外出できる衣服を用意したのだから。今度は、ゼロと一緒に買いに行こう。
んで、堂々とパンツを買おう。
そんなことを考えつつ、俺は二度寝に入った。
「行かねーの? てか既に昼だから遅刻確定だけど、さ」
呆れるように言う彼女に対して、俺は一言、他人事のように答えた。
「辞めた」
「え?」
「会社辞めた。昨日の午後連絡して、手続きも終わってる」
俺は天井をぼんやりと眺めながら、自分にも言い聞かせるように呟く。
会社を辞めた。
知らなかった。
たったそれだけのこと。肩書きがなくなり、社会から外れるだけで。
こんなにも、安らかな気持ちになれるなんて。
不安なんて何もない。未来が明るい。やりたいことや、生きる活力が、自然と湧き出てくるようだった。
「そうか……じゃ、今日からずっと一緒だな」
「ああ」
仰向けに寝転がる俺の上に、ゼロが覆い被さる。
彼女の肩を抱きしめ、髪を撫で、首筋にキスをする。
今の彼女は、俺にとって、人の形をした幸せそのものだった。
「そんじゃ一丁、オレも溜まってた分を吐き出すか。お前も、途中で果てるんじゃね……」
ゼロが魅惑的に
ピンポーン。
という間の抜けた玄関のチャイムにかき消される。
「チッ。んだよ、良いタイミングで邪魔しやがって……無視しよーぜ」
「いや、きっと注文してた冷蔵庫だよ。野菜も果物も氷も酒も、今よりもっと入るやつだ。お前の同居祝いと、俺の退職祝いってとこかな」
「そうか! そりゃ良いな……金は?」
「心配は要らない。最近は便利なサービスがあってな、ボーナス払いって言って、夏までクレジットカードの引き落としを待ってくれるんだ」
「ふーん、で、無職のお前に、誰がボーナスをくれるんだ?」
「あ……」
ピンポーン。と、二度目のチャイムが虚しく鳴り響く。
俺の脳内は忙しなく会議を始める。
いまこの場で返品するか? できるのか? 居留守を決めこんで後で注文キャンセル? キャンセル料があっても払ったほうが安上がり、それとも受け取って、夏までにバイトで稼ぐか? 親に事情を説明して金を借りるか? どうすれば……。
「とりあえず」
ゼロは俺の頭を両手で挟むように掴んで、顔を近づけ、唇を重ね合わせた。
「心配事は、酒でも飲んで忘れよーぜ。人生もマラソンと同じで、ゴールがないと走ってらんねーだろ」
「酒の癖に、深いこと言いやがって」
その後、俺は配達員に、ゼロといるところを白い目で見られながらも、冷蔵庫を部屋まで運んでもらった。
ファミリー向けの巨大な冷蔵庫に目を輝かせ、請求書に目を丸くし、それでも、中身を移し替える作業は目一杯楽しんだ。
「これだけ入れても、まだスッカスカだな、ゼロ、お前中に入れるんじゃないか?」
「
「ああ、そうだよ」
俺は正面からゼロを見つめる。
彼女の顔は、酔っ払ったみたいに、真っ赤になっていた。
二人の生活は、これからも続く。
いや、今日から、始まったのだ。
−196℃ストロング・ゼロとの日常 アズマライト @azuma_light
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