第6話:−196℃の喪失
「ゼハー……ゼハー…た、ただいま……」
病み上がりに走るもんじゃない。
入部当初以来の、『死ぬほど走る』ではなく『走るほど死ぬ』と言う感覚を、思い出した。
そんなグロッキーな状態で帰宅。
リビングでは、ゼロがソファに腰掛け、氷水を飲みながら、つまらなそうにテレビを眺めていた。
ほんと、良い身分だな、こっちの苦労も知らないで。
とは、口が裂けても言えない。
だってその姿は、酒のつまみに駅伝を見る、これまでの自分のそのものだったから。
「……あれ?」
そこで俺は、風呂に水が張ってあるのを見つける。
ゼロがまた水浴びでもしたのかと思ったが、そうではない。
湯気が、立っていた。
風呂として、沸かされている。
「ゼロ……? ゼロなのか? おい! 俺が入って良いのか?」
「あたりめーだろ。お前が水に入れねえように、オレは湯には入れねえ。アルコールが抜けて、酒じゃなくなっちまうからな」
「そっか……ありがとう!」
「ふん」
ゼロは、終始ぶっきらぼうな口調だったが、その優しさは、痛いほど伝わる。
早速湯に浸かると、そこに極楽があった。
ゼロが、俺のために風呂を準備してくれていた、その優しさが、熱い湯とともに、体に染み込んでくる。
そうか、最近はずっとシャワーだけだったんだ。日によっては、それすらも無しで眠っていた。
温まるだけで、こんなに心地いいなんて……。
ランニングの疲れ以上に、日頃の疲れも溜まっていたんだろう。俺は浴槽の中で、ウトウト微睡んだ。
突如、ガチャっという浴室の扉の開く音。
そして、乱入してくるゼロ。もちろん、俺の買った下着も含めて、何も身につけていない。
耳に入ったその音と、目に入ったその光景に、俺はすっかり覚醒する。
「ゼロ……⁉︎ 熱い湯は入れないんじゃ……!」
「シャワーで冷水を浴びにきただけだ。期待と準備までさせて悪いが、混浴はしねーよ?」
「準備って……あ、これは、その、血行がよくなった結果であって……」
俺はゼロに背中を向け、心と、体の一部分を必死に落ち着かせる。
「そうかい、それは結構、なんちゃって」
ゼロは苦笑しながら平然と冷水を浴び始める。
その冷たさを想像するだけで、身の縮む思いだった。実際に、体の一部分はそれで縮んだ。
やっぱり、彼女は人間じゃないんだ。
改めて、そのことを思い知った。
彼女は、社会に合わせる俺を、自殺志願だと言った。
じゃあ、彼女はどうなんだ?
これほどまでに人間社会に合わせている彼女は……平気、なのか?
「なあゼロ、お前、無理してないか? もっと……気楽に生きて良いんだぞ?」
「お前が言うな。今日だって死にかけただろ?」
「それはそうだけど……え? なんで俺が倒れたことを知ってんだ⁉︎」
「土曜日から続くストレス、昨晩の異常発汗に失禁、不整脈。無事な訳ねーと思ってさ」
ゼロはシャワーを止め、全身ずぶ濡れのまま話を続ける。
「今朝のアレは……病気の前兆だったのか。あんな分かりやすい体のサインを見逃すなんて、俺は、生物として失格だな」
「オレを責めないのか? お前の……酒のせいだって」
「責めないよ。飲んできた俺の意思で、君はただの化身だ。直接の原因じゃない。なんなら、正当な理由で会社休めてラッキーなくらいだ」
「……オレは、酒として失格だな」
「……? どう言う意味だ?」
「気にすんな、アイデンティティー、あるいは存在意義の話だ」
それだけ言い残し、彼女は先に風呂場から出て行った。
随分と難しい言葉を知っているんだな。教育テレビも見て覚えたのか?
存在意義、その言葉に妙な引っ掛かりを覚えながらも、俺は再び風呂に肩まで浸かり、完全に疲れを消し去ろうとした。
もう倒れないように、重い病気にならないように。
早く健康な体に戻って、再び酒が飲めるように。
********************
次の日は、朝から忙しかった。
これからの生活に必要な物を揃えるため、大型のショッピングモールまで買い物に行ったからだ。
ゼロも誘ってみたのだが、『眠いから』と理由で同行を拒否された。仕方ない、酒は本来長時間寝かせて作るものだ。
そんな訳で一人、手早く買い物を済ませていく。
まず、スポーツショップにて、替えのランニングウェアやタオルを買った。これから本格的に始める運動のためだ。
次に、家電量販店にて、大容量の冷蔵庫を買った。食材と、果物と、氷を保存できるように。
そして現在、俺も普段利用するアパレルチェーン店に来ている。
ゼロの服を入手するためだ。
普段は通りがかりもしない、女性服のコーナーに足を運ぶ。
さて、どんな服を買うべきか。
女性服は男性服に比べて圧倒的に
数ある中で、俺は、ワンピースを手に取る。ものぐさな彼女でも着やすいだろうし、何より、体型の融通が効く。
まあ、彼女は身長も体重も、平均的なそれから大きく外れていないし、大丈夫だろうと、俺は二、三回は見た彼女の全裸を思い浮かべつつ、納得する。
問題は、下着である。
こればっかりはどうしよもうもない。
当たり前だが、女性服にもサイズがある。しかも、『S・M・L』で完結する男性よりもはるかに細かく刻んである。
やっぱり本人を連れてくるべきだった、最低でも、採寸をしておくべきだった。
俺はこの場で彼女の下着を買うことを諦め、帰って通販の力を借りることにした。
しかし、今日は平日で、他の客も店員もまばらだ。こんな機会、滅多にない。
そう思い、せめてゼロに似合う色やデザインを、この場で実物をもながら、じっくりと吟味するすることにした。
そういう趣味があるわけじゃない。強い興味があるだけだ。
赤のメッシュが入っているから、やっぱり赤か? いや、レモンが好きだから黄色も良いな。それか無難(?)に黒か? 少し大人っぽい色気があった方が解釈に合うな……。
「うわあ……」
そんなことを呟きながら、中腰で陳列を眺めているところを、一人の若い女性客に目撃され、声に出して引かれる。
おっと、これじゃあ俺ただの変質者だ。通報される前に帰ろう。
そう判断し、顔を伏せ、彼女のすぐ横を通り抜けようとする。
「……あれ?」
その狭い視界で捉えた光景が、記憶の扉を開く。
今日が平日で、相手が私服だったから意識していなかったが、見覚えがある。
スキニーなジーンズを形作る脚線美、そしてしっかりとした腰つき、間違いない。
「君は……命の恩人の女子高生!」
「はいそうです。お久しぶりです。ところで……どこ見て言ってるんですか?」
彼女は心底呆れたような、
下着コーナーの前で立ち話するのは嫌なので、さっさと買い物を済ませて、場所を変えましょう。
彼女に言われるがままに俺は買い物を済ませ、外のベンチで待つ。
遅れて、彼女が合流してきた。隣に座ってくる。
きっちり、人一人入れるくらいの間隔を空けて。
なんか、スパイ同士の情報交換みたいだった。
しかし、実態は、あんな場所にいた俺への尋問だろう。
会話の主導権を握られないよう、俺は先手を打つ。
「えっと……今日って平日だよね。君はどうしてここに?」
「創立記念日です。その質問、私からも良いですか?」
「俺は……会社の創設記念日だよ」
「だとしても休みにならないでしょ」
「はい、嘘です。普通に有休です」
「どうしてすぐにバレる嘘をつくんですか……? 私、あなたが病気で倒れた、まさにその場面に立ち会ってますから。健康状態が良くないこと、知ってますから。それで、有休中にこんなところで何してたんですか?」
俺の渾身のジョークを流され、早々に会話の主導権を剥奪され、尋問へと変わる。
彼女の口調は冷静だが、こちらを睨む目つきが鋭い。背中に、変な汗が浮かんできた。
こんな緊張感、就活以来だった。
何を言っても、嘘っぽくなりそうだ。
本当の理由こそ、一番信じてもらえなさそうだけど。
「……娘の下着を買いに来たんだ」
「父親に下着を買いに行かせる娘なんていません」
「え? そうなの?」
「そうです」
俺は激しいショックを受けた。
え⁉︎ だって、母親は普通に息子のパンツ買うじゃん! 俺も中学まで、いや、高校に入ってからも買って貰ってたぞ!
「なぜ父親はダメなんだ? 差別じゃないか!」
「下心があるからでは?」
有無を言わさぬ正論だった。
俺はベンチの上でがっくしとうなだれる。
しかし、そんな風に気を落とす俺を、彼女は逃してくれない。
「で? 本当の理由はなんですか? 素直に、そういう趣味だと白状しますか? 女性物の下着を使って何をするつもりだったのかは、想像もしたくないので詳しくは聞きませんが」
「それは本当に違うんだ……実は俺、今家に、家出少女? みたいのを
厳密には少し違うが、
圧力に負けて言ってしまった、絶対に罵倒される。いや、通報されるか?
そう身構えるも、彼女の反応は、拍子抜けするほど淡白だった。
「ああ、なんだ、それなら結構です」
「え? 良いの? 本人の同意があっても誘拐だよ? 犯罪行為だよ?」
「良いんじゃないですか? 自分の居場所くらい自分で決めても」
「でも……ほら男女だし、世間的にもさ……」
「あなたも逮捕されるリスクを負っているのだからお互い様でしょ。それに、愛情がなければ、あなたは下着を買わないし、信頼がなければ、その子は下着を買いに行かせないでしょう?」
凄え。
この女子高生、ただの優等生じゃなかった。
俺なんかよりも遥かに、価値観が広く、器も大きい。
俺はなんて子に痴漢しようとしてたんだ……触れるどころか、近づくことさえ恐れ多い。
俺は別の理由で、再度うなだれた。
「何を食ったらそんな立派な人間になれるんだ……?」
「立派って、だからどこ見て……ああ、すみません、ちゃんと目を見てましたね。別に私立派じゃないですよ。今日も、実は学校サボってここ来てますし」
「え? 創立記念日は?」
「嘘です。授業が簡単すぎて逃げてきました」
理由が高度だ。
それを逃げと言うなら今の俺は何だ? 逃げることもできず、会社に、社会に囚われて。まるで捕虜じゃないか。
あるいは、奴隷か。それ以下の、家畜。
社畜とは、よく言ったものだ。
辞書の判例に、俺の顔が載ってそうだ。
「あなたも逃げたら良いのに」
「逃げられないよ……金が、必要だし」
「何のために? 酒と交通費と医療費のためですか?」
「……」
目から鱗だった。
汗水垂らして、身を粉になるまで全力を振り絞って働いて、その結果得た金を、何に使ってきた?
ほとんど全て、会社のために、いや、会社のせいで、使わされてたんじゃないか?
平日は尻に火をつけて働き、休日は溺れるように酒を飲んでいる。拷問のようなマッチポンプだ。
俺は、一体何のために働いて……いや、何のために生きているんだ……?
「なんて、生意気言ってすみません。立派に働いている社会人に対して」
「いや……ありがとう。勇気を貰えたよ。本当に、君には助けられてばかりだな」
「良いですよ。私、あなたの話次第では通報するつもりでしたから」
「怖っ!」
抜かりないなあ……。
「それじゃあこの辺で」
「あ、ちょっと待って……君の学校って、校則は厳しい?」
「え? 別に……普通だと思いますけど」
こんなにアドバイスをもらったんだ、余計なお世話かも知れないけど、俺からも何か言わないと気が済まない。
俺は立ち上がり、彼女に向き合う。
そして、彼女の抱えるハンドバッグの中身を指差しながら言い放つ。
「なら、もっと自分を出して行こうよ! 例えば、さっき買ってたその下着、俺は、君は、もっと派手な柄が似合うと思うな」
「それを……下世話と言うんです! ……通報しますよ?」
「すみませんでした!」
彼女はバッグの口をキツく締めつつ、本当にスマホを取り出して操作し始める。
俺はその婆で、腰を直角にする謝罪の姿勢をとった。
「病院の時みたいに、土下座しなかったのは成長の証ですが、発言、というか失言のレベルは変わりませんね」
「何卒……ご慈悲を」
「……まあ、バッグから見えているのに気づかなった私の落ち度でもありますし、これで手打ちにしましょう」
そう言って彼女は俺の前に何かを差し出してきた。
彼女の買った、パンツだった。
「えっ…………⁉︎ 良いの? くれるの? いやったーーーーーーー!」
「気持ち悪い。はしゃぎすぎです! 言っておきますけど、その家出してる子のためですからね。それから、今後あなたに遭遇した時に、中身を想像されたくないだけです」
「女子高生のパンツ……女子高生のパンツ……」
「男の人って、未使用未開封の工業製品に、そこまで興奮できるんですね。羨ましくはありませんが……くれぐれも、変なことに使わないように、サイズが合わなければ処分してください」
「え? 俺に?」
「違います! その家出してる子のサイズです!」
その後、手に女性物のパンツを握ったまま、女子高生にこっぴどく説教されるサラリーマンの姿がそこにはあった。
ていうか、俺だった。
こんな姿を、もし誰かに見られたら、もう会社に行けない。
今日が休日で、人目が少なくて本当に良かった。
会社辞めたら、毎日こんな感じのかな。
なんて、益体のないことが、ふと思い浮かんだ。
********************
「……ん、アレは」
説教から解放された俺は、即座に帰宅する予定だったが、ショッピングモールの出入り口で足を止める。
そこには、イベントスペースが設営されていた。
見れば、夏に向けた商品のあれこれが、まとめて展示されているらしい。
「これは……いや、まだ、ダメだ」
俺は、『大人向け』と書かれたゾーンに置いてある、大特価の箱入り缶チューハイに手を伸ばしかけ、やめる。
前の俺なら、迷わずこれを買っていただろうな。
今の俺なら、買うのはこっちだ。
俺は、『子供向け』ゾーンに置いてあった、ある物に手を伸ばす。
これはこれで相当嵩張るし、重いのだが、ゼロのためなら、この程度の苦労は安いものだ。
俺は午前中で買い物を終わらせ、昼も摂らず、一目散に家へと帰った。
少しでも長く、ゼロと過ごすため。
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