第5話:−196℃の失敗

 月曜日の朝。

 いつもなら憂鬱を背負ってゾンビのように布団から這い出る所だが、今日の俺は違った。

 俺史上、一眼機敏な朝だった。

「うおおおおおおい! なんで布団がびしょ濡れになってんんだー! 母親からの大事なプレゼントで! ウチにある唯一の寝具だぞ!」

「朝っから元気だな……何? 昨日の夜のこと覚えてねーの? あんなに張り切って出したのに……」

「どけゼロ! 話は後、洗濯が先じゃーーー!」

 俺は布団を引っぺがしてゼロを転がり落とし、廊下をダッシュ、風呂場横の洗濯機にぶち込んですすぎ一回を設定する。

「時間は………⁉︎ 良かった、ギリギリ遅刻はしなさそうだ!」

 髭を剃り、寝癖を直すため鏡を見たことで、自分の服もぐしょ濡れになっていることに気付く。

 その場で全て脱ぎ、回っている洗濯機に、洗剤と一緒に放り込む。

「なあ、オレの服も湿っててキモリわりーんだけど……」

 ひょっこりと姿を見せたゼロの衣服を剥ぎ取り、また洗濯の中に追加する。

 隣には、ごうんごうんと唸りを上げる洗濯機。後ろには、裸の少女。そして俺は、全裸で髪を整えている。

 なんだこの状況……? 本当に俺の家で起きている出来事なのか……?

 一大事件、大惨事と言っても過言ではない。

 あるいは珍事。

 しかし、この程度のトラブルで会社を休むことは出来ない。

「…………」

 ゼロは終始何かを言いたげな目でこちらを見ていたが、結局無言のまま、リビングへと戻って行った。

 何だったんだ? 今日はやけに大人しいな、アイツ。

 一抹の不安と、不気味な疑問を覚えながらも、布団を干した後、着替え、家を出た。

「行ってらっしゃい、気を付けて」

 やけに強い口調で、ゼロから言われた。

 そんな気がした。


********************


 駅に着いてからも、『ツいて』なかった。

 人身事故で列車が遅延。

 振替輸送のホームは激混み。

 早起き上司からの嫌味と説教。

 身も心のボロボロのまま、現在、過密列車の中で、全方位から人に押され、圧縮されている。

 サラリーマンの出汁が取れそうだ。

 脂肪と塩分過多で、食えたものではないだろうが。

 しかし、悪いことばかりでは無かった。

 知らなかった、この時間のこの電車には、学生が大勢乗っていることに。

 当然、女子高生もいる。

 というか、目の前にいる。

 さらに言えば、密着している。

 弁解させて貰えば、不可抗力である。

 痴漢冤罪を避けるため、両手を上に掲げたのが、かえって仇となった。

 俺は、何も支えに出来ず、踏ん張ることも出来ず、電車と人波に揺れ動かされていた。

 股間を、彼女のお尻に押し付けたまま。

 ……本当にごめんなさい!!

 これを痴漢と言わずして、何と言うのだろうか。

 首を倒し、チラッと目の前の彼女の顔を見る。

「………」

 目に涙を浮かべ、歯を食い張っていた。今にも、何かが爆発しそうになっていた。

 俺は、悟った。

 ああ、今日は上司でなく、勇気あるこの子と、正義感のある駅員と、義務感で動く警察に詰められるな、と。

 これこそ、大事件である。

 動悸と汗が止まらない。人が多いとはいえ、まだ午前中で、今日は、そこまで気温も高くないと言うのに。

 呼吸が荒くなる。胸が、苦しくなる。

 どうして俺がこんな目に……? 時間も気力も体力も、全て、社会に捧げているというのに。

 会社員としての身分や、社会人としての名誉まで奪われるのか?

 納得、できない。

 『どうせ痴漢で捕まるなら、いっそ本当に触ればいい』

 俺は、悪魔の囁きを聞いた。

 瞬間、俺の理性が消えた。

「キャあ!!」

 恐怖の叫び声を上げた女子高生が、怨恨えんこんに満ちた目で、俺を見下ろす。

 ……見下ろす?

 俺は、電車の汚い床に手をついたまま、彼女の顔を見上げる。その表情は、動揺や混乱を表していた。

 床に手をつく? 見上げる? それに、動揺? 混乱?

 あれ? 俺? 何で、こんな場所で寝て……。

 直後、俺の意識が切れた。


********************


 俺は、病院のベッドの上で目を覚ました。

 腕には、点滴のチューブが刺さっている。

 看護婦曰く、俺は心筋梗塞で倒れたそうだ。

 どこかで最近聞いた言葉だ。

 悪い生活習慣、特に過度の飲酒などが原因で搬送される人が最近増えているらしく、思い当たることはないか聞かれた。

 ありすぎて、どれから話したら良いのやら。

 飲酒、運動不足、適当(雑という意味の方)な食事。

 ストレスで弱った俺の心臓を殺すには、十分すぎるメンバーだったようだ。

 ただし、救急車が到着するまでの間、迅速な応急措置を受けたお陰で、一命を取り留めたらしい。

 なんでも、その場にいた女子高生が主導で行ってくれたとか。

 ……流石に、あの女子高生じゃないよな?

 痴漢をした俺の命を助けてくれるとか、どんな聖人だ。

 一生かけても、頭が上がらないし、恩を返しきれない。 

 なので、せめてもの贖罪として、彼女のあの長く健康的な足で踏まれる妄想をしながら、眠りについた。


********************


 夕方になって動けるようになった俺は、入院せずに、帰宅することを選択した。

 不健康でもまだ若いし、金がないし、何より、同居人が待っている。

 病衣の入口付近で会社に電話をかけて、一連の顛末てんまつを伝え、休養のための有給を申請した。

 帰りにコンビニではなく、この前見つけた大きなスーパーに寄って、俺のための野菜と、彼女のための果物を買おう。そして、今日から自炊して、運動して、酒は絶とう。 

 そう誓いを立てて、病院の正門を抜けて一歩踏み出す。

「おっと……! すみません」

 路上に出たところで、病院に向かう人とぶつかりそうになる。

「……あ!」

「え?」 

 横を通り過ぎようとしたが、その女性の素っ頓狂な声に、足を止め、振り返る。

「良かった……無事だったんですね! 直前に学校で受けた救命講習が役に立ちました」

「君は……」

 彼女は、電車で目の前にいた女子高生だった。

 そして、どうやら、俺の命を繋いでくれたのも、その女子高性だった。

 聖人であり、命の恩人。

「……本当に、ありがとうございます! そして大変申し訳ありませんでした!」

 感謝にしても、謝罪にしても、俺の取るべき行動は、ありがたいことに、一緒だった。

 俺は、彼女の目の前で、まだ会社でもやったのことのない、全身全霊を懸けた土下座をした。

「ちょ、ちょっと、こんな場所でやめて下さい!」

「お願いします、やらせて下さい! お金もいくらでも払います!」

「いや、誤解されますから! 人も見てますし、とにかく、立って下さい!」 

 そう彼女にたしなめられ、立ち上げる。

 しかし、彼女を直視できない。罪悪感で、立っていることも心苦しい。

 そう彼女に伝えたら、病院までの鞄持ちという任を与えられた。

 カバンと言わず、あなた自身を背中に乗せて、病院まで四つん這いで運んで行きますよ。と提案したが、それは全力で引かれた上に、却下された。


********************


「足の怪我……?」

「はい、部活で、少し故障しまして」

 病院の待合所にて。

 俺は彼女の隣に座り、待ち時間の間の、話し相手の任に就いていた。

 口を開けば感謝と謝罪と賛美しか出てこない俺の言葉を遮り、彼女は自分のことを話し始めた。

「それは大変だね。陸上部でしょ?」

「はい……え? どうして分かるんですか?」

「実は俺、こう見えて大学時代陸上部だったんだ。だから、その腰つきを見れば分かるよ」

「それは変態です。嘘でも『その深刻な顔つき』とかにして下さい」

 俺に軽蔑の目を向けながらも、同じ部活を経験した者として、彼女は苦悩を吐露した。

「少し前に、県の代表に選ばれたんです。それで周りの期待に応えようとするあまり、オーバーワークになって……今リハビリを続けてますが、完治する頃には卒業しているだろうって……」

「……なるほど」

「スポーツ推薦で大学に進学して、陸上を続けるつもりでした。ですが、怪我のせいでそれもチャラになって……仕方ないので、気持ちを切り替えて勉強しています。でも……」

「勉強に身が入らない?」

「いえ、元から成績は良いので、普通に受かると思います。なんなら指定校推薦も取れます」

「……」

 めちゃくちゃハイスペックじゃないですか。そりゃ応急処置くらい出来るわ。

 迷惑かけてない過去の俺でも頭が上がらねえ。

「心配なのは、ブランクです。大学でも走れるのかなって……大学の部活って、やっぱり高校よりも厳しいですか?」

「大学によるでしょ。あと実は俺、陸上始めたのは大学からなんだ。高校時代は帰宅部」

「え⁉︎ どうして急に陸上部に?」

 それらしい適当な理由をでっち上げようとしたが、この秀才に生半可な嘘は通じないと思い、ドン引きされることを覚悟で、素直に言うことにした。

「めちゃくちゃ可愛い先輩に勧誘されて……入部すれば、あのエロいユニフォーム姿を間近で見られると思ったんだ」

「空気抵抗を極限まで減らし、通気性と軽量化を追求した機能的なデザインを、その三文字で表現しないで下さい。……入ってからつらくありませんでした?」

「辛かった、人の格好見るどころじゃない。死ぬかと思った。でも、彼女に格好悪いところ見られたくなくて、人一倍練習した」

「凄いですね、男の人って、そんな不純な動機で頑張れるんだ……」

「結果、駅伝の選手に選ばれた」

「ええ……本当ですか⁉︎」

「しかも、その先輩と付き合うことも出来た」

「進研ゼミの漫画レベルのサクセスストーリーですね」

「でも……俺の快進撃はそこまでだった。俺も同じだよ、周りの期待に応えようとして、体を壊した。で、部活を一足先に引退した時に、彼女とも破局した」

「……それは辛いですね」

「しかも彼女はその直後に他校のライバルに寝取られ、治療のために引き篭っていたせいで就活も失敗、現在ブラック企業で自慢の脚力を活かして営業をしてるよ」

 彼女の表情があからさまに曇る。

「……大学行くの怖くなってきました」

 彼女を元気付けるつもりが、希望のない愚痴になってしまった。 

 いや、でもここまで話したなら仕方ない。

 時には、多少強引でも、押した方がいいこともある。

 ……って、誰に言われたんだっけ。

 まあいい、勇み足になっても、押し切ろう。 

「だから、君は大丈夫だよ」

「今の話のどこに安心できる要素が?」

「だって、不純な動機で、大学から始めた俺が代表になれたんだから、君なら、きっと大学でも活躍できる」

「……確かに、そういう考え方もできますね」

「イケメンの彼氏もきっとできるよ」

「それは余計なお世話です。というか、下世話です」

「ごめん……」

 本当に勇み足を踏んでしまった。あるいは、地雷かも。

 その時、ちょうど彼女が診察室に呼ばれた。

「もう……大丈夫なのか?」

「私じゃなくて、自分の心配をしたらどうですか?」

 返す言葉も無かった。

「でもありがとうございます! 話を聞いてくれて、あと、恩返しとか考えなくて良いですよ、実は私、電車内で、思いっきりあなたの股間を蹴り潰そうと考えてましたから。あと一歩のところでした」

「……それはどうも」

 彼女の鍛え抜かれた脚を改めて見て、額に汗を滲ませながら、俺は彼女に頭を下げた。

 どうやら、心筋梗塞に息子の命を助けられたようだ。

 やれやれ、とんでもなくタフな女子高生もいるもんだ。

 俺は、すっかり元気になった彼女の表情を脳裏に焼き付けながら、スーパーに向かった。

 俺も、今日から頑張らないとな。


********************


「ただいま」

「おいおい、随分とおせーじゃねーか? さては女か? いや、お前に限ってそれは無いな、テレビで見たぞ、ブラック企業とか言うやつだろ。そこまで無理して社会に合わせるとか、自殺志願としか思えねーぞ」

「違うよ……買い物で、遅くなっただけだ、ほら」

 そう言って俺は氷と果物のたっぷり入ったビニールを見せる。

「おお! よりどりみどりじゃねーか! 早速、このドラゴンみたいな形のフルーツを……」

「待て待て。今から、洗って、皮むいて、切り分けてやるから」

「別にそこまでしなくていーよ……ま、お前がそうしたいなら勝手にやってくれ。あ、皮は残しといてくれよ、にげーけど、あそこが一番栄養あんだ」

「了解した」

 俺はゼロに注文の品を提供した後、自分の夕食を作り始める。彼女は、そんな俺の姿を、物珍しそうに見ていた。

「今日はコンビニ弁当じゃ無いんだな」

「今日から自炊することにした」

「酒切れてるけど、買ってきてねーのか?」

「それは丁度良かった、しばらく禁酒するつもりだったから」

「ふーん……」

 ゼロはどこか不満げな顔をしながらも、納得したようで、黙々とフルーツを食べ始めた。


「よし、できた」

 陸上部時代は栄養管理も徹底していたため、実は料理は得意である。

 俺は出来立てをテーブルに運び、ゼロの向かいに座る。ソファは彼女が占拠しているので、テレビ台の前、座布団もない床の上である。

 思えば、彼女とまともに食事をするのは、これが初めてな気がする。

 彼女の食事はまともでは無いけれど。

「本当に水と果物だけで良いのか? 俺の分、少し食うか?」

「余計な気を使ってんじゃねーよ。何度も言わせんな、オレは酒だ。ストロング・ゼロだ。米なんか食ったら日本酒になっちまうだろ」

「え? そうなの?」

「当たり前だろ。人間だって大半は食ったものでできてんじゃねーか。野菜が主食のデブがいるのか?」

「言われてみれば……てことは俺はコンビニ弁当でできてるコンビニ人間だな」

「便利そうだな。幸せそうじゃねぇが」

 いただきます。

 そう言って俺は、ちゃんとした食事を口に運ぶ。

 美味い。

 たった一口で、体が浄化されるようだった。

 そうか、これが俺の体の一部になるんだもんな。胃に入って、エネルギーになって、全身に巡って。

 仕事ののためではなく、自分のために食べている。そんな感覚だった。

「だから、ワインが根みたきゃ葡萄ぶどうを買ってこい。テキーラが飲みたきゃアガべを採ってこい。トンスルを飲みたくなったら言ってくれ、うんこ食うから」

「ブっ!」

 折角のご飯を吹き出しかける。

「食ってるところを見たければ見せてやるが……お前が出して俺が食って、できたものをお前が飲んで。酒じゃなくて永久機関ができるな!」

「俺にそんな趣味はない! しかも食事中だぞ!」

 ほとんど食べ終わっていて良かった。

 食べる速度と消化の速度は、大学から速いままだ。

「そうだ、ゼロ」

「なんだ? うんこか? 食えばいいのか?」

「違う、良い加減トンスルから離れる。お願いがある」

「お前からオレに? 珍しいな、言ってみな」

 俺は、ゼロが着ているジャージを見る。

 今朝洗濯したての、大学時代から使っている、思い出の品だ。

「その服、脱いでくれ」

「ほほう……? ようやくその気になった訳か。待ってたぜ! 好きなようにしろ!」

 ゼロはジャージを床に脱ぎ散らかして全裸になると、胸を張って、迎えるように両手を前に広げた。

 俺はそのジャージを拾い、彼女の差し伸べられた手に、ビニール袋を引っ掛ける。

「あ? んだよこれ?」

「女性物のスウェットと下着だ。スーパーで買った安物だけど、今はそれで我慢してくれ」

「着るの? オレが? 酒がパンツ履くかよ」

「普通、酒は密閉された容器に入ってるものだろ。飲む時以外は」

 ゼロは乱雑にビニールの中身を取り出し、わざとらしく大きなため息を吐く。

「ああ……なるほど、そう言うことね。分かったよ、お前、やる気ねーんだな」

「気に入らなかったか? すまん。無かったのは時間だ、明日、もっと良いやつを買いに行くから許してくれ……!」

 俺はジャージに着替えながら、自分のセンスの無さを呪う。

 だって女性服とか……! 今まで買ったことなかったんだもん! 

 娘ができたら相当に苦労するな、と、密かに自分の将来を心配した。

「そうじゃねーよ……走りに行くんだろ? ほら、さっさと行けよ」

「え?」

 大変不機嫌なゼロに蹴り出されるようにして、俺は家を飛び出した。

 そうじゃない? じゃあゼロは、一体何に怒っているんだ?

 疑問を抱えながらも、俺は夜の街を駆けた。

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