第4話:−196℃の誘惑

「う……ん?」

 日曜日の朝。俺はやたらと薄くて熱い銀色のかけ布団を跳ね除け、起床した。

 頭が痛い。二日酔いの症状。

 昨日の記憶がおぼろげである。

 なんだか、これまでのことが全て夢だったような気がする。

 金曜夜に大酒飲んで、丸一日、幻覚と幻聴と共に過ごしたとか。もしくは、ずっと夢の中とか。

 そう言われれば、そんな気もするし、ここ数日の出来事を病院で説明しても、精神科への紹介状を書かれるだけだろう。

 いよいよ生活を見直さないとダメかもしれない。

『このように、不摂生な生活や過度の飲酒によって引き起こされる生活習慣病は、最近若いサラリーマンの間でも増えてきており、中には、仕事のストレスも重なり、脳卒中や心筋梗塞で急死するケースも……』

 リビングのテレビから、ちょうど嫌な話が聞こえてくる。

「だってよ。良かったな、テレビでお前の特集が組まれてるぞ」

 ソファから、もっと嫌は声が聞こえてくる。

 これまでのことは、全て現実だったようだ。

 俺は立ち上がり、リビングへと向かう。

 声の主は、もちろんゼロだ。

「よ、おはよ。んだよ朝から元気ねーな。ポコチン以外」

「普通朝から元気はねーよ……ポコチン言うな、誰のせいだと思ってる……って」

 俺はソファでレモンを皮ごと丸齧まるかじりしている彼女の姿にギョっとしながらも、彼女の格好にさらに驚く。

 今日は、全裸ではなかった。

「お前、そのジャージ……!」

「借りた。全裸よりもこっちの方が興奮するかと思ってさ。どう? ブカブカのサイズ感が良い味出してるだろ?」

 そのジャージは、俺が大学時代に入っていた部活のユニフォームだった。

 確かに、彼女の言う通りだった。

 自分の服を女性が着るというのは、最大限親密になった証であり、通常なら同棲しないと、あるいは事後でないと見られない光景である。その格好の女性というのは、男性の支配欲、所有欲、庇護欲を満たすと同時に、全能感を与え、それが一段と劣情を掻き立てる。

 さらに言えば、ジャージが持つ属性と結びつけても、オフやラフと言ったイメージが先行すれば、女性の自然体、素の状態を覗くことになり、独占的な特別感あるいはプライベートな日常を垣間見ることへの背徳感を得られる。一方で、スポーツやアクティブといったイメージが先行すれば、その女性の活動的な、あるいは野生的な側面を見出すことになり、男の本能的な行動、原始的欲求、平たく言えば性欲に繋がり易い。

 結論として、彼女の今の格好は、最高である。

 ってそうじゃなくて。

「……どこから引っ張り出してきたんだよ、そんな物」

「どこって、すぐそこに干してあったぞ?」

 すぐそこ、というのは寝室にあるクローゼットの取っ手である。

「あ、そうか……ランニングを始めるつもりで出しといたんだ」

「いつ?」

「……半年くらい前」

 ゼロがいやーな笑みをこちらに向けてくる。

 言いたいことなど大体予想がつく。どうせ、『半年も走れなかったんだ! ダッサ!』とかだろう。

 何も言われても構うものか。思い立ったが吉日。なんとしても、今日から、走りに行ってやる。

「そりゃ悪いことしたな。お前もうこれ一生洗濯できねえぞ。オレの匂いが消えるとか言って」

「そんな握手会後のドルオタみたいなこと言うか。脱げ、今すぐ洗ってやる」


 なんて一悶着あったが、結局俺は別のジャージ(これはもっと昔に買って一度も着て無かったやつ、タグまでついてた)に着替え、ランニングの、華々しい一歩を踏み出したのだった。

「おいおい、モノローグで嘘ついてんじゃねーよ。一歩踏み出すどころか、部屋からすら出られてねーじゃねーか」

「クソ……なぜこんなことに……」

 彼女の言う通りである。

 現在俺は、ソファの上で背筋を伸ばして座っていた。

 そうして、隣に座るゼロに、文字通り絡まれていた。 

 『ちょっとこっち来いよ』と彼女に呼ばれ、素直に従ったのが運の尽き、というか意思の尽き。一度ソファに座ったが最後、もう立ち上がる気力もない。

 右隣から抱きついてくる彼女の右手が俺の左手の指に絡められ、さらに首には腕まで回されていた。

 観覧車の中でいちゃくつカップルのような密着状態。そのまま、ずっと耳元で囁かれている。

 こんなのドキドキしない方がおかしい。

 ただし、その内容を除いて。

「なあ、チューハイの『チュー』ってどういう意味か知ってるか?」

「……焼酎しょうちゅうの『チュウ』だろ?」

「ブッブー。正解はアル中の『チュー』でした」

「大事なのは『アル』の方だろ……ハイは? ハイボールじゃないのか?」

「ランナーズハイの『ハイ』」

「さっさと規制しろ、そんな飲み物!」

 ハイになるほどの中毒性のある飲み物など、ただの薬物だ。劇薬か? いや、もはや毒物だ。

 こんな風に、嘘の酒知識とか、下ネタとかを永遠と吹き込まれていく。 

 これだけで、頭がおかしくなりそうだった。

「じゃあ次の問題」

「今の問題だったのか? 確かに、案件貰えなくなるくらい、発言そのものが問題だったが……」

 そこでゼロが一呼吸置く。俺は反射的に身構えた。彼女が何かを仕掛けようとしている、気がする。

「今、オレがしたいことは何でしょう?」

「……え? ええと、一緒にランニングとか……?」

「ヒント。『チュウ』」

 そう言って彼女はぺろっと舌を出した。

「……」

 ヒント?

 あからさまな舌も含め、出し方があまりにも下手過ぎないか?

 擬音にもなるひと単語って。 

 仮に俺が、鈍感難聴唐変木どんかんなんちょうとうへんぼく系主人公だったとしても、流すことは出来ない。

 しかし、彼女が、男心刺激悪戯おとこごころしげきいたずらからかい系ヒロインである可能性を考慮して、素直に乗ることも出来ない。

 どうせ俺が『キス……?』とか答えたら、『ブッブー、残念、バク宙でした! ほら罰だ、ここでやってみろよ』とか言ってくるに違いない。

 となると俺の最適な答えは……当たらずとも遠からない、それでいてユーモアがあって、思わず笑えるような……。

「はい、時間切れ、答えは『キス』でした!」

「本当にただのキスかよっ!」

 彼女は俺の答えを待つことなかった。ほら、こういうことを平気でしてくる奴なんだ……て。

 キス? 

 本当に? 

 魚の『キス』とかいうオチではなくて?

 それこそ陸に上がった魚のように、口を半開きでパクパク、目をガン開きでパチパチさせている俺に向かって、至近距離で、ゼロは愉快そうに笑う。

「んだよその反応、嬉しくねーのか? あ、それとも『ただのキス』じゃ不満か?」

「そういう訳じゃ…」

 と、俺はここで、自分がテンプレの会話の応酬に乗せられてることに気付く。

 よし……少し、反撃してやろう。

「ああ、そうだよ! ただのキスじゃあ物足りねえな!」

「そうか、そう言うと思ってゲームを考えたぞ」

 そう言って彼女は机の上の三つの果物、レモン・グレープフルーツ・シークワーサーを指さした。

 ダメだ、全く動じない。どころか、俺の反応すら予定調和だったみたいな。

 ああもう、どうにでもなってくれ。

 俺は投げやりな気持ちで、ゲームとやらのルールを聞く。

「オレがどれか一つを口の中に入れるから、お前は、目で見ずに、手でも触らずに、中の物が何か当てるんだ。名付けて、『口の中身は何じゃろな!』」

「……ええと、どうやって? 質問する……とか?」

「舌を使ってに決まってんだろ」

 当然のように言うゼロ。

 それはつまり、ベロチューでは?

 テレビで似た企画でも見たのだろうか。もちろん、ゴールデンで放送できるのは『口』じゃなくて『箱』だろうけど。

 て言うか、ゲームとして簡単すぎないか? 多分唾液だけで識別できる。

 と言うことは、ゼロは、本当に俺とキスがしたかったのか……?

「じゃあ早速第一問。オラ、準備するから目ぇ閉じろよ」

「は……はい」

 何故か彼女は威圧的で、反射的に、俺は敬語になった。

 クチュ……という音が聞こえてくる。ゼロが果実から、一口分齧り取ったのだろう。

「はい、あーん」

「あ……あーん……」

 彼女の声が、吐息のかかる距離から聞こえる。正直、この匂いだけでも当てられそうだった。

 ただ律儀に俺は鼻呼吸を止め『嗅覚』というズルを封じ、指示通りに大口を開けてその場で待つ。

 待ち遠しくなっている自分がいた。

 これでいいんだよな……?

 目を閉じているため、こちらから近づくことは出来ない。彼女からの、キス待ちの状態。

 うわ……今気づいた、これ、『ただのキス』じゃない……! どのタイミングで、どんなキスが来るのか、予想ができない! 

 だから、心の準備も出来ない。

 心臓に悪いくらい、ドキドキする。 

 そうしてたっぷりと時間が過ぎた。

 ……来ない。 

 ……これ、実はドッキリだったんじゃないか?

 ドキドキしながら少女からのキスを待つ成人男性。

 その姿を想像するだけで、俺でもキツさが分かる。ゼロにとって、笑いのネタには十分だろう。

 今頃彼女は、まぶたの向こうで、口を抑えて笑いを堪えているに違いない。

 またしても彼女にやれらた! 手の込んだことをしやがって!

 そう思い、堪らず、目を開けた瞬間。

 狙い澄ましたかのように、いや、現に彼女はこの瞬間を待っていたのだ。

 俺の口に、ねじ込まれた。

 昨日買ってきたばかりの、新鮮なレモンが。

「ああーーーーーっ!」

 口内が、酸味の暴力に晒される。唾液が、滝のように口から流れ落ちる。

 ゼロは、マーライオンのように口から水を出す俺を見て、呼吸困難になるくらい、ゲラ笑いしていた。

 最低だ……この女!

 思わせぶって、からかって、焦らして、焦らして、最後はオモチャ扱いかよ!

「あがあ……ふあ……」

 文句を言おうにも、口を開いて出てくるのは唾液だけだった。

「あーサンキュー! テレビの生ぬるいドッキリに見飽きてたんだ。そう睨むなって、ほら、口直し」

 そう言って彼女は、グレープフルーツを手に持ったまま身を寄せてくる。

 まずい……! ようやく口の中が酸味に慣れてきた所なのに、今、そんな苦味のあるものを入れたら……!

 身構えたが遅かった。

 俺はソファに押し倒され、口の中に追加でねじ込まれる。

「………?」

 苦味が来ない。

 酸味も引いた。

 代わりに口に広がったのは、フルーティーな、アルコールの味だった。

「っ−−−−−−−−−−−⁉︎」

「んん……ング」

 俺はゼロにまたがられ、両手を押さえられ、口内を、彼女の舌でかき回されていた。

 レモンが溶けて混ざった口の粘膜を、丁寧に舐め取られるように。

 二人の間で、熱を持った唾液が交換される。舌同士が、踊るように絡み合う。

 俺の脳が、溶けた。

 ひんやりとしたゼロの体も、ズシリとした重さも、全てが心地良く感じられる。

 夢見心地のまま、ゼロに身も心も委ねる。

「知ってるか? 酒を飲みすぎると、おっ勃たなくなるそうだぞ? 今のお前みたいにな」

「……違うよ、本当に好きな人の前だからだよ」

「あー重症だな。オレは酒だってのに」

 そのまま布団へと移動し、俺は、酒に溺れた。

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