第3話:−196℃の入浴
「ただいま……」
俺は、酒と果実とロックアイスの入った袋をガシャガシャと鳴らしながら玄関に置き、すぐに戸締りをする。
やれやれ、シークワーサーを見つけるために、三つもスーパーを梯子する羽目になるとは。
「おいゼロ! お前のお使いなんだからせめて取りに来い……ゼロ?」
同居人を呼ぶが返事がない。どころか、気配もない。しんとした室内に、ピチャンという水音だけが、妙に大きく反響する。
「風呂場……?」
俺は土足のまま廊下を進み、すぐ横のバスルームを覗く。
開けっ放しの扉の奥、浴槽の中に、ゼロがいた。
肩まで水に浸かり、目を閉じている。
「……俺が仕事で外駆け回っている時に、お前はぬくぬく入浴かよ、いい身分だな……おい、俺も混ぜろよ」
ゼロがいた安堵感で、一番風呂を取られた不快感を相殺し、俺は純粋な下心のみで、服を脱ぎながら、浴室に足を踏み入れる。
寝ているのか、それとも俺の反応を楽しんでいるのか、ゼロは一切動かない。
まるで、死んでいるかのようだ。
それをいいことに、俺は浴槽のすぐ横まで接近し、中を覗き込む。
「……濁ってて、よく見えねえな。……そうだ、風呂の水を飲んでやろう。これぞフロロング・ゼロだな。では、頂きます」
そう言って身をかがめながら一歩踏み出した俺は、落ちていたビニールを踏み、前に転ぶ。
「うおっ……!」
バッシャーン! という音と飛沫を上げ、俺は頭から浴槽にダイブする。
支えを得ようと彷徨う手が、水中で、柔らかい二つの膨らみを掴んだ。
ちょうど、甘食くらいの大きさと弾力。
が、即座に手の感覚が消える。
それだけではない、腕から上半身まで登ってくるように、血の気が引いていく。
それもそのはず、ゼロが浸かっていたのは、お湯にあらず、
冬場の海のような、冷たい水だった。
「うぎゃあああああ!」
俺は、水の中から勢いよく飛び出し、犬のように激しく体を振って水滴を飛ばす。
高速でブレる視界の中に、踏んづけたビニールが入る。それは、自宅の冷凍庫にストックしてあった、ロックアイスの袋だった。
「氷水風呂かよ! ちくしょう! とんでもねえイタズラ考えやがって……!」
そう悪態を吐き、ゼロの顔を見る。
彼女の顔、いや、デコルテを含め、見えている範囲から、血の気が失せ、氷像のように固まっていた。
イタズラ……?
じゃ、ない⁉︎
「おいおいおい! 何やってんだよ⁉︎」
俺は意を決して氷水風呂に両手を突っ込み、彼女の体を引き上げようとする。しかし、彼女の体は見かけ以上に重いこと、手が
「うおおおおおおお! 根性見せろや、俺ええええええええ!」
その掛け声と同時に、靴下を脱ぎ、今度は自分の意思で、足から、浴槽に入る。
彼女の全身を、上から下まで下心で、舐めるように俯瞰することで、心拍数と体温を上げる。さらに理性を抑制し、脳のリミッターを解除すること限界以上の力を手に入れる。
いざ、彼女の体を抱き抱え、水中から引き上げる。
お姫様抱っこをしたのだが、その時に触れた彼女の足も腰も、氷のように冷たかった。彼女の滑らかな肌など、今は幽霊に触れたような不気味さしか感じない。
「体温を上げる方法は……シャワーからお湯を出すか? いや、時間がかかる。それよりも、まずは体を拭いてからだ!」
俺は一応風呂場の湯沸かしのスイッチを入れたあと、この家唯一のバスタオルを手に取り、彼女の体を包む。その一方で、置物と化していたドライヤーをコンセントに繋ぎ、彼女の髪を乾かしていく。
体を拭き終えても、髪を乾かし終えても、彼女は、眉一つ動かさなかった。
「おい……嘘だろ……?」
バスタオル越しに、彼女の胸に手を当てる。
鼓動が、感じ取れない。
耳を押し付ける。
何も、聞こえない。
蛇口を捻っても、出てくるのはまだぬるま湯。これをかけても逆効果だろう。
温める方法……熱いもの……発熱……そうか…アレを使えば……!
俺はそこで天啓を得た。
ゼロを一度寝室まで運び、玄関に戻る。
靴箱の隣に置いている、災害に備えた、非常用持ち出しバッグ。その中から、銀色のシートを取り出す。
防災用保温シート。暖房設備のない場所で、雨風や寒さを凌ぐための着る毛布。
寝室に戻っ俺は、それをマントのように背中に広げ、彼女に覆い被さり、海苔巻きのように、自分たちを巻く。
このシートにできるのは保温だけ。
発熱は、俺の体温で。
「死ぬな………ゼロ!」
相変わらず氷のように硬く、冷たいゼロを抱きながら、少しでも体温を上げ、それを伝えるため、密着する。
なんで、こんなに必死になっているのか、自分でも分からない。
出会って一日の、謎に満ちた存在。
出かける直前の俺に、お使いを頼む図々しさ。
それでも、行くときに『行ってきます』、帰ったら『ただいま』と言える相手だ。
それはもう、家族みたいなものじゃないか?
「俺はまだ……『おかえり』って、言って貰ってない!」
「……フ」
その時、彼女の唇から微かに息が漏れた。気がした。
俺は、その僅かな息を確かに感じるため、彼女の口元に耳を近づける。
次の瞬間、頭を殴られるような、激しい音の衝撃を喰らうことになった。
「あーはっははっはっはっは!! ドッキリ大成功ー!」
「ぐわあぁ……」
ゼロの爆発するような爆笑を間近に受け、人生で初めて、鼓膜が破れる感覚を知った。実際は、こうして声が聞こえる訳で、破れてはいないんだろうけど。
……ドッキリ? ドッキリって言ったのか? この女⁉︎
「いやーお前が出かけてる間、暇つぶしにうちの会社のCMでも見ようかな〜ってテレビつけたらさ、『家に帰ると妻が死んでる』的な映画をやってて、『おもしれー、いっちょオレもやってみるか!』ってとでやってみた訳よ。したらお前……ブフっ! あはははは! マジ最高。いやーごめん、笑い死ぬからその呆けた面やめて?」
「……い、いや、でも! 確かに心臓は動いてなかったぞ!」
「だからオレは酒だって。酒が脈打つか? 風呂に入るか? チューハイは熱燗もぬる燗もしねーだろ」
「それもそうだよな……いや、イマイチ釈然としないんだが」
「ま、あの場で『キンキンに冷えてやがる……!』くらい言えたら合格点をあげられたが、まあ、日々生きるのに必死なお前に、そんなユーモアを要求するのは酷か」
「ユーモアだって? ……俺は、本気で心配したんだぞ! 最初はおっぱいだったけど、人間に対する処置として、失敗はしてないはずだ……!」
「それも合格とは言えないな。おっぱいを除いて最初の方は良かったが、あと一押し、処置が足りねえ」
「……あと一押し?」
「そ、寄り添って温めるのも良いけど、それは余裕があるやつ用だ。切羽詰まった時には、少し強引にしないと、動くものも動かねえぞ? ……おいおい、自分の必死の行動にダメ出しされたからって泣くなよ。仕方ねえな、これが謝罪の証と……答えだ」
「何を……むぐ!」
唇を塞がれた。
言うまでもなく、彼女の唇で。
銀色シートを自分で巻いたため、抜け出すことはできない。
深い、深い、心地よい、ディープキス。
俺は、肺で飲酒をしているような酩酊状態に陥った。
「ぷはっ! 答えは『人工呼吸を含めた心肺蘇生』だよ。あ、言い忘れてた、『おかえり』。私とお風呂にする? 私をご飯にする? そ・れ・と・も……する? なんちゃって。ああ、もう聞こえちゃいねーか。じゃあこっちだ『おやすみ』。私が出てくるような、良い夢見ろよ」
地獄、地獄、最後に天国。
こうして俺の週末は、半分が終わったのだった。
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