第2話:−196℃の邂逅
「う……頭いてえ……」
予想通りの頭痛で、俺は目を覚ます。
ポリピリと頭をかきながら、昨日見た夢を考察する。
あの生まれ方と行動。まるで、空き缶を捨てなかったことと、弁当を食わなかったことを批判しているみたいじゃないか。
だとしたら彼女はヴィーナスではなく、もったいないお化けということか?
……仕方ない。空き缶は今日片付けよう。それと、弁当は朝飯にしよう。
そう思い、床を見る。空き缶で満杯だったゴミ袋の中が、空になっている。
今後は、机を見る。唐揚げ弁当の中に不自然な隙間が空いている。唐揚げのすぐ横、この場所には通常、そう、レモンが入っているはずだが……。
キュイっと、台所から蛇口を捻る音が聞こえる。
大学時代位から続く一人暮らし生活の中で、一番の恐怖を感じながら、そちらに目を向ける。
「おい……誰だ!」
そこにいたのは、高校生くらいの年齢の少女だった。髪型は、長さが不揃いの黒のセミロング、そして前髪に赤のメッシャー。
彼女はこちらに目を向けると、ニヤリと歯を見せて笑う。
「知ってっか? ヴィーナスって海に切り落とされた父親のペニスの泡から生まれたんだぜ? 最高だよな、現実味はねーけど人間味があって」
そう言って彼女は、一人でゲラゲラと笑い、泡立つコップの水を一気に飲み干した。よく見れば、グラスの底に、薄切りのレモンが張り付いている。
「お……お前は、誰だ……?」
「ああ? あれだけ飲んどいて誰だはねーだろ」
彼女こそ、夢にまで見た、美少女だった。
いや、落ち着け。普通に不法侵入の可能性が高い。そういうば、昨晩帰って戸締りをした記憶がない。
俺はあくまでも常識の範囲で考えることにした。
「お前……ひょっとして家出少女ってやつか?」
「ちげーよ、お前の下品の妄想押し付けんな、夢でやれ。はっきり言わねーとダメか? オレはストロングゼロだよ」
「ストロングぜろ……」
「おう! ゼロでもエロでも好きに呼んでくれ」
そう言って、何がそんなに誇らしいのか、彼女は堂々と胸を張る。
何も身につけず、露わになった胸を。
発展途上、甘食ほどのサイズ。それでも、女性の胸、始めて見るわけではないが、俺は反射的に目を逸らしつつ、話題も逸らす。
「ぜ……ぜろ、お前の正体はもういい。目的は何だ? 金か?」
「ハッ! 金なら十分貢いで貰ってるぜお客様? 言ったろ、オレはメーカーでも卸でも小売りでもない。酒だ。そのものだ。そんなオレの目的はただ一つ」
台所からゼロが詰め寄ってくる。
そして、寝汗でシワシワになったワイシャツの胸ぐらを掴まれる。
「人間を、ダメになるまで虜にすることだ」
俺はそのままソファへと押し倒され、馬乗りにされる。
彼女に胸ぐらと左手を押さえつけられ、身動きができない。
「ちょ、ま……」
そのまま、ゼロの顔が近づいてくる。
「何だ? 押し倒されのは始めてか? 心配すんなって、オレに身を委ねろ、秒でイクぞ?」
彼女の吐息が唇にかかる。味も感じ取れるほど、近く、強く。
その味は、昨晩口に入れている。
やはり本当に、ストロングゼロ? の、擬人化? なのか?
だとしたら……だとしたら……最高、じゃないか?
「おお? どうした? 急にやる気になって、朝立ちか?」
気づけば俺は、逆に彼女を押し倒していた。
「酒……と言ったな。俺を虜にするのが目的とも。じゃあ、どんなことをしても良いんだな?」
「その代わり、最後までしっかり味わえよ」
「当然、一滴残らずしゃぶり尽くしてやる……!」
限界だった。
俺はソファの上、彼女に馬乗りになったまま、ズボンのベルトに手をかけ、バックルを外した。
その時、
ピルルルルル。
と、間抜けな音が机の上のスマホから鳴った。
「……はい! お疲れ様です!」
俺は画面の表示を見るなり現実に引き戻され、秒で応答する。
会社からの電話だった。
「はい……はい……え? 今からですか? 土曜日に法人営業なんて……いえ、なんでもありません! すぐに向かいます!」
俺はスマホをそのままポケットにしまい、ソファから飛び降りて、最低限身だしなみを整え始める。
「んだよ、出かけんのか? 私と仕事どっちが大事なのよ⁉︎ なんつって、普通『お前が大事だから仕事してる』んだと思うんだけど、どう思うよ? 金無し、甲斐性なしの世帯なしさん?」
「知るか! 俺がいない間、悪さすんじゃねーぞ」
「あ、追い出さないんだ? ま、こんな美少女を裸のまま外に追い出したら、休日出勤以上の大事件だもんな」
「じゃあ行ってくる!」
俺がその言葉を言ったのは高校生の時以来だった気がする。あの頃は、急いでいる時に限って、無神経な母親に、帰りにお使いを頼まれたりしてたっけ。
今ではもう、そんなことを言う人もいないけど。
「あ、帰りにレモンとグレープフルーツとシークワーサー買ってきて、あとロックアイスも」
「人が急いでる時に! 変なもんと重いもん頼むんじゃねーよ!」
思わず大声を出した自分を恥じながら、家を飛び出し、駅へとダッシュで向かう。
久しぶりだな、あんな大声を出したのも、こうして、全力で走るのも。
土曜日の朝日も、いつもと違う人混みも、今日は一段と新鮮に思えた。
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