空室

 朝霧が晴れるまでそうしているつもりか、と、きっと貴方は訊く。私は浸るようにきゅっと目を瞑ってから、貴方を隣へ誘うんだ。気怠そうな貴方はちょっと顔を顰めながらも結局隣に来てくれる。肩が触れ合わないくらいの距離感で。

 涸れかけの涙のような脆い光が遠くの空に見え始めた午前四時。少し窮屈なベランダは私たちの特等席だった。

 心地良いくらいの冷気がトレーナーの薄い布地越しに身体を包み込むから、安っぽい味のホットココアが入ったマグカップのぬくもりをいっそう愛おしく感じる。あんまり丈夫そうには見えない柵に肘を置いて体重を預けると、空の藍色が少し近くに来たような気がした。貴方には「危ないよ」と何度か注意されたけれど、この癖はついに治らなかったな。

 思えば貴方には叱られてばかりだった気がする。計画性が無いとか、楽観的過ぎるとか、車道側を歩いたら危ないとか。論理的な思考力が足りないのかな、私。想像力が足りないのとは違うんだと自分では思うんだけど、どうだろうね。きっと貴方が真人間過ぎたんだよ。

 そうだよ。貴方は時折苦しくなるくらいに正しくて、頑固で、それでいて誠実だ。「最後くらい見送りに行くよ」なんて口約束を反故にしてくれないくらいには。

 少しだけ首を傾けて、振り返る。開け放したままの窓の向こう、部屋の中にはもう何も残っていない。テレビも、冷蔵庫も、貴方が気に入っていたソファーも、鏡台も。貴方と愛を育んだ……それはもういいか。この部屋に私がいた証の全てが既に運び出された後だ。行き先は新居かもしれないし、或いはゴミ箱の中かもしれない。大事だったのに失くしたものもたぶんある。

 何かが悪かったわけじゃない。

 どうしようもないくらい絶望的に食い違ったわけじゃないんだと思うんだ。それは本心だけれど私自身に言い聞かせる言葉でもある。フッたとか、フラレたとか、そういう浅い話をしたくないんだ。非生産的だと貴方も頷いてくれるはず。喧嘩別れでもない。だからこれは必要だったこと。起こるべくして起こったことなんだ。それこそ絶望的だって貴方に言われてしまうかな。

 だけど好きだった。大好きでした。濃い隈の浮かんだ目も、薄い唇も、油断するとすぐハネる髪も、ちょっとだけ頼りない身体も。その遠慮のない正論ですら、嫌いじゃなかったんだ。

 手のひらの温度と混ざってぬるくなったココアの残りを、ぐっと一息に飲み干す。甘ったるくて少し後悔した。早くここを出ないと、と同時に強く思う。

 傍らに置いていた、最後に残った荷物を詰め込んだキャリーケースを引き寄せる。マグカップはいいや、置いていってしまおう。

 窓の閉まる微かな音は、からっぽの部屋にも響いてはくれなかった。丁度いい。まだ誰も起こしたくない。みんな眠ったままでいてほしい。この部屋が空室になるまでは。


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浅い夜の短編集 あいおす @reruray2

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