彗星猫
『東京は午前二時かい?』
君からの信号が届いた真夜中。返信用の端末を探し、右腕はごく自然な動作でベッドの上を弄る。枕元にあったデジタル時計の表示そのまま『01:55』とだけ送ると、ややあって『だからモテないんだよ』と返ってきた。事実だけど、君に言われるのはなんだか癪だ。
『それで、どうしたの』
君のいる第二衛星都市は今頃、午前零時を回ったところだろうか。以外にも日本との時差はさほど無いのだと、いつだったか君が言っていたから覚えている。
『いや、特別なことは何も。もしかして寝るところだったかな、だとしたらごめんね』
『ううん、大丈夫』
一般的にはどう考えても非常識な時間だけどね。思いはしたけれど、送信するのはやめておいた。君と私の仲だからそのくらいは大目に見てあげようか。
『ただちょっと珍しいなって思っただけ。ほら、君の方から連絡してくれるなんてこと、滅多にないからさ』
『そうだったかな』
自覚がないのがとっても君らしくて、本気で怒ってやろうと思ったのについ頬が緩んでしまう。文面だけは『いい加減愛想も尽きるよ?』と頑張ったけれど、君を見放した私なんて想像もつかない。どこかで失せるような愛情ならとっくの昔に立ち消えてるんだと思う。多分。
『ごめんって』
さほど気にした様子の見えないメッセージ。へらへら笑って言う姿が目に浮かぶ。
いつだってそうだった。
ただなんとなく不安な日も、絶対に伝えなきゃいけないことがあるときも。君の方から連絡してきてくれたことなんて、きっと、出会った日まで遡っても片手に収まる程度の数でしかない。「衛星都市に行くんだ」と教えてくれた日だって、そんな大事な話だというのに君はひどく無頓着で、愚痴を聞いてほしいと私が呼び出した喫茶店で、去り際になんでもない世間話をするような温度で呟くんだ。
出立がその翌日だったのは、今でも恨んでないと言ったら嘘になる。
『いいけどさ』
本心。哀しいことに。
『今日はなんだか眠れそうになくてさ』
『うん』
『誰かと一緒にいたいなって』
『私も』
通信機越しの言葉は直に触れる君の声には遠く及ばないけれど、それでも二人して似たようなことを考えているのが「一緒にいる」証明みたいで嬉しい。
『それと』
『なに?』
『そろそろ寂しくなってる頃かなって』
そこまでお見通しだなんて聞いてない。
『あのさぁ』
鬱陶しいだけの毛布を蹴り飛ばしてベッドから這い出た。開けっ放しだった窓から微温い風が注いできて、過ごしやすい季節はもう終わってしまったのだと絶望的に悟る。仄かにアジサイの匂いがしたように感じたのは気のせいだろうか。そうであってほしいと、特に理由もなく思う。
『その気遣いが出来るんなら他にするべきことがいくらでもあったと思うんだけど?』
『ごめん。そういうの疎くてさ』
『うん、知ってるよ。嫌味の一つでも言いたくなっただけ』
決して不誠実な人じゃない。悪気があるわけじゃない。分かっているけれど、むしろ君が故意にそうしているのなら私はもう少し気楽でいられただろうに、と思ってしまうのは許してほしい。だって分かっていても寂しいものは寂しいじゃないか。
ただ単に君にとってさほど興味を惹かれる事柄ではなかった、と。たったそれだけの話なのだ。これは。
『気を遣ってくれただけでも嬉しいよ』
進歩したって思っといてあげる。と、これは胸の内に留めて。
『そう言ってくれるならいいけど』
表情が見えないのが今更ながら口惜しい。
手持ち無沙汰に冷蔵庫を開けて、目についた飲みかけのコーラを取り出した。あんまり威勢のよくないぷしゅっという音がして、身体に悪そうな甘い匂いが広がる。風情無いなと自分でも思う。
『やっと分かってきたところなんだ』
『人間が?』
『人間が』
『自己評価でどのくらい?』
『50%』
『まだでしょ。20%』
『手厳しいね』
『偏り過ぎだもん』
『難しいな』
『いいんじゃない? そのままで』
いろいろ欠けてるけど、その分だけ素敵なものを付け足されて生まれたのが君だと思うから。この星の誰が非難しようと、私はそのままの君を肯定し続けるんだと思う。知らない世界への憧れで生まれた君を。
まだ眠気の漂わない部屋の中、巡る感傷は現実との境を少し曖昧にする。
いつだったか君は言っていた。
「誰も見たことのない景色を見てみたいんだ」
まるで無垢な子供がするような、期待でいっぱいの笑顔。「そのためなら死んだって構わない」とも。目を離したらいなくなってしまいそうな危うさは、けれど一等星をいくつ集めても及ばないくらいのキラキラを内包していて、私には触れることすら出来なくなる。
だから、予感はあったんだ。
ああ、いずれはこうなるのだろう、と。
分かっていて何も言えなかった。
『いいのかなぁ』
『うん。きっと』
そうなるべくして君は星空を目指した。いいや、そのもっと先を、だ。まだ誰も知らない彼方の、更に向こう側を。
君を乗せた探査船が衛星都市を出発するのは三日後の今頃。帰還日は未定だという。
『あのさ』
空になったペットボトルを放り投げる。何も返さずに言葉を待った。
『好きな人はいる?』
どくん、と胸が痛いくらいに鳴ったのが分かった。急だなんてものじゃない。どういう思考を辿ってその質問に至ったのか問い質したいけれど、息が苦しくてそれどころじゃない。
『分かってるでしょ』
身体の内側から吐き出すみたいにようやく搾り上げた言葉なのだと、通信機越しではきっと伝わらない。
『うん』
その肯定がどういう意味を持つのか分かり得ないのと同じことだ。
『知ってるけど直接聞きたかったんだ。ありがと』
『一応言っておくけど返答なら要らないよ。私も知ってるから』
『助かるよ』
どう返していいかわからなくて、少しの間じっと手元の端末を眺めていた。こんなちっぽけな機械が無ければ会話もままならない距離にいるのだと、嫌でも気付かされてしまう。
『もうすぐ、なんでしょう?』
痛いと知りながら踏み込むことしか、今の私には出来なかった。
『うん。出発前は忙しいからさ、通信できるのはこれが最後になるかも』
『そっか』
『楽しんでくるよ』
帰ってこないと決まった訳じゃないのに、こんなにも苦しいのは弱い自分のせいだろうか。
『うん。夢だったもんね』
憧れで飛び乗った彗星猫は、どんな軌道を辿ってもきっと地上には戻ってこない。ずっと前から分かっていたことだから、今更悲しみはしない。嘆くこともない。
『そろそろ、寝ようか』
『そうだね。体調は万全じゃないと』
星の向こう、宇宙の端。誰も知らない世界に到達したとき。そうしたら君の夢は、生きた意味は……自己満足は、きっと幸せにその果てを迎えるのだろう。
『じゃあね』
『お休み』
またね、と言えなかったのはちょっと優しすぎやしないだろうか。毒づいてベッドに潜り込む。
君は死ぬんだろうと思った。それは悲しいことだけれど、きっと遠くない未来にそうなるんだろうと、確信に近い予感がある。そうならなければいいと心の底から願っているはずなのに、眠りに落ちる前のぐにゃぐにゃの思考はそうならなかった。
最期の刹那、君が満ち足りた顔ならそれでいいと。
君を殺すのが好奇心であればいいと、星の見えない東京の片隅から祈っていた。
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