浅い夜の短編集
逢原凪色
38.5
慣れた様子で肩に掛けたギターケースに、雨粒が跳ねている。彼は濡れた長い前髪を鬱陶しそうに右手で抑えた。
湿った街、塗り潰したネオンライト、少しだけ息苦しい夜、駆けるエレキギターの狂音。乗せたリリックは叫び声みたいで殆ど聞き取れないけれど、その切羽詰まった音は溢れんばかりの生命の主張みたいで、灰色の最先端技術とやらで塗装されていく味気ない街に降る虹色の雨のようにも思えた。表通りの喧騒も裏通りの影でさえも余すことなく照らしたその音に役割を奪われた月も太陽も、今日一日ずっと、何を偲んでか分厚い雲に隠れたまま出てこようとしなかった。グズついた空模様にとうとう耐えきれなくなったように降り始めた雨は少しずつだけれど勢いを増していて、自衛手段を持たない俺たちになんて構ってやる気は微塵も無いらしい。改装工事中の駅ビル、風情のない宣伝カー、歩道橋下に咲く傘、雨曝し。誰もが俯き加減に家路を急ぐつまらない街で、彼と彼に呼び留められた俺の二人だけが立ち止まっている。
世界は終わるのかもしれないと思った。漠然と、けれど強く確かな実感を持ったそれは、今ある唯一の希望かもしれなかった。
目の前の彼も同じようなことを願っているのだろう。濡れたマスクを顎の辺りまでずらすと、余程息苦しかったのか二回深呼吸した。この明るい街ですら満足には映さない限りなく漆黒に近い瞳を見て、悟る。きっと、彼の想いは俺より遥かに強いのだろう。
「やりきれないよ」
君になら分かるだろう、と語りかけるような色素の薄い声。
本来であればそんな弱った声を聞かせるほどの関係性は俺と彼との間には無い。互いの存在を認知はしているけれど積極的に話しかけたりはしない、ただのクラスメイト。軽音楽部でバンド活動をしているらしいが、「そういう」部活の人にしては珍しく校内の行事にも消極的で、教室の隅でいつもヘッドホンをしている暗いヤツ。正直なところ、俺は彼についてその程度の認識しか持っていなかった。おそらくは彼の側からしても同様だろう。
ただ、今日、俺が呼び留められた理由くらいは、傘も差さずに呆然と立ち止まった彼の姿を見た瞬間に察せられた。
それは『俺』の姿も同様に見えているのだという自省も含めて。
「……やりきれない」
もう一度そう呟いた彼の瞳が動いたのに釣られ、同じ方向に視線を向ける。
大通りに設置されたディスプレイ。そこには、センターマイクを目一杯傾け、叫ぶように歌う赤髪の男の姿が映し出されていた。特徴的なのは分厚いメイク、目元が殆ど隠れるくらいの長い前髪、それから黒い軍服をスパンコールで飾り付けたようなデザインの衣装。その人目を引く奇抜なステージ姿に、稀に画面に映し出される観客たちは、皆一様に大きく腕を振り回して熱狂している。歓声に応えるようにより激しく声を張り上げて歌う姿は、自らに陶酔しているようにすら見えた。
それは、今朝未明、自室で首を吊った男の最後の雄姿。
「ゼオはさ、憧れだったんだ。僕の」
ゼオ・セルセント。数年前、動画サイトに投稿された初作品である『傀儡エゴイズム』が爆発的な勢いで拡散され絶大な支持を獲得して以来、新曲が発表されるたびに注目を集めてきた有名なミュージシャンだ。その爆発的な人気の一方で、その素顔や私生活は、年齢や国籍といった基本情報にいたるまで謎に包まれていた。
包まれていた、のだ。あくまでも。今朝の訃報を受けてあらゆるメディアが拾い集めた情報から、彼が『ゼオ・セルセント』というミュージシャンであるために隠し続けてきた本当の『彼』の姿は、おそらくは彼にとって不本意であろう形で公のものとなった。
「亡くなったことはそりゃ悲しいよ。もうゼオの本物の歌を聞ける機会が無くなった事実が単純に悲しい。だけどさ、それ以上に見たくなかったんだ。僕にとってのヒーローのあんな姿」
それは俺にも理解できる感情だった。ありのままの姿なんて知らない方がいいことは山ほどある。現実はメイクを剥いでみれば何のことはない。
彼にとっての『ヒーロー』はただの人間だった。多くの人が想像していたほど若くもないし、報道番組で見た素顔のゼオの写真は驚くほどに『普通』で、取り立てていうほど格好良くもない、大した特徴もない、探せば簡単に見つかりそうなただの人間にしか見えなかった。
「何って言えばいいのかなぁ……うん、分かってはいたつもりだったんだ。だけど頭ん中で理解してるのと実際に突き付けられるのじゃ違うんだよ、分かってくれるよね、僕がどれだけ失望したか!」
彼は茫然自失といった表情のまま、瞳に涙を浮かべているように見えた。雨のせいでよくは分からない。
「……失望って言葉はゼオに失礼だったかも。僕もまだ分からないんだ。分からない。こんな感情知らないんだ。許して。でも僕はゼオの素顔がどんな人間かなんて知りたくなかったんだ。ゼオが人間だなんて思いたくなかった。ましてや……自分で首を括るような弱い人間だったなんて」
声は表情と裏腹に悲痛だった。彼の持てる感情の範囲から乖離しているようにすら感じられた。ギターと身体、歩道橋と街、現実と非現実、雨曝し。街はもう息が出来ないくらいに暗い。きっと今の彼にはそれに思い至るほどの余裕はないし、気付いている俺もその場から動けずにいた。
「……もうどうすればいいか分からないよ。ずっとゼオの存在を希望に生きてきて、理想としてきて、最終地点として見据えてきて。それが今ふっと消えて、『ああ、僕がずっと憧れていたそれは、枯れた砂漠で見た蜃気楼にすぎなかったんだ』なんて。
だってさ、ゼオみたいになりたくてギターも買ったんだ。髪型だって真似した。だけどそれは真似でしかなくて、本物のゼオにはなれないって分かっていて、それでよかったんだ。僕みたいなただの人間が焦がれたくらいじゃ手の届かない存在であって欲しかった。まかり間違ってもゼオの方から僕のいる近くまで落ちてきて、それで『やっと手が届いたね』なんて望んでないし、嬉しくもない。
おかしいよね、こんな風に思うなんて。ゼオがこの世界からいなくなっても、ゼオの素顔が平凡な誰かだったとしても僕が今まで聴いてきたゼオの音楽の素晴らしさは変わらないのにね。僕だって最初はきっとそうだったんだ。あんな風に歌えたらカッコイイなって、純粋にそう思ったのに、光が強すぎて、憧れが強すぎて見失ってたんだ。でももう取り戻せない。今更、盲目的にもなれないんだ。ねぇ教えてよ、僕はどうすればいい? これから先何を目標に生きて行けばいい? 」
紅い頬、死には至らない程度の熱病、この街、雨曝し。
唯一無二で絶対だった存在への信仰は廃れた。拠り所を失った身体は雨に打たれてどことなく虚ろで、肩に掛けたギターケースだけが辛うじて彼を現実に繋ぎ止めている。
きっと、答えが出ないことくらい彼にも分かっているのだろう。そのやり場のない不安は、憂いは、怒りは俺に向かって吐き出してもどうしようもないことくらい彼は最初から知っている。知っていて、それでも俺を引き留めずにはいられなかったのだ。この憐れみも慰みもない街で、殆ど唯一傘を忘れて歩いていた俺を。
俺が今日、傘を差していたら彼は呼び止めなかったのだろうか。ふと些末な疑念が頭を過ぎる。それとも何か同族の波長のようなものを感じ取ったのだろうか。どうか前者であってほしいと思った。だって、そうでないとしたら俺は彼の姿を他人事にできなくなる。よりこの身に切迫したものとして受け止めなければいけなくなる。きっと俺はそれに耐えられないだろうと、何故だか確信していた。
少しは冷静さを取り戻したのか、そうは思えないけれど「ごめんね、こんな話して」と彼は言葉上は取り繕い、重そうな瞼を二回上下させた。
「こんな雨の中引き留めちゃって。それ塾のバッグだよね、教科書とか入ってるんじゃないの」
指摘の通り、俺のバッグの中には教科書や今日渡された課題のプリント類が沢山入っている。とはいえ、今更急いで帰ったところで無事に済むとは思えないし、そうしたいとも思わなかった。それよりも、彼のギターこそこんなに濡らして大丈夫なのだろうか。
尋ねると、彼は鈍い笑みを浮かべた。
「……いいんだ。もう、こんなの」
そう言うと、彼はぐしゃぐしゃに濡れたマスクをつけ直してその表情を隠した。
現実に戻る合図みたいだった。「じゃあ、またね」と一声だけ残した彼と、何も言えなかった俺は、反対の方を向きそれぞれの家路を辿る。一瞬だけ振り返ってみるものの、彼の後ろ姿は街の灯りと雨のせいでよく見えない。
原色が混じり合って澱んだ嫌な雨の中、ディスプレイはまだ、もうこの世にいないヒーローを映していた。
***
翌日、彼は昼休みの騒がしさに紛れるようにふらふらと教室に現れた。おそらく狙って選んだのであろうそのタイミングのおかげで、誰も彼が来たことに気付いている様子がない。関心がないだけかもしれないが。先に軽音楽部の部室に置いてきたのか、それとも何か他の理由なのかは知る由もないが、彼の肩にギターケースは見えない。
昨日「またね」と言って別れたのに、彼の二つ前の席に座る俺には目もくれず、いつもと変わらず教室の隅の席でヘッドホンをして目を瞑っている。
「誰の曲を聴いてるの」
とは、まだ訊く気にはなれなかった。
快晴の街、消え損ないの水溜まり、教室を満たす騒音、あと数分で始まるつまらない授業、つまらない現実、未だ痛みと呼べるほどの現実味を伴わないそれは、きっともう完治することのない熱病。
彼の心はきっと、未だ雨曝し。
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