きみの未来に私はいない

橘 春

LIKE A FULL MOON

 重い木の扉を押すと、頭上から涼しげな鈴の音がした。レジの奥はキッチンに繋がっていて、そこから二十歳ほどのウェイトレス姿の女性が出てきた。「何名ですか」と訊ねられ、優香が「二人です」と答えながらピースをつくる。その指先を、あんずは無意識に見つめていた。

 今日は空がきれいだから、という理由で窓際の席を選んだ。今日の空は何故か全体的に薄い紫の膜があり、あんずはそれに気付いたとき、不気味だな、と感じた。だから、優香が「きれい」と言っていて、驚いた。確かにそういうような気もするが、あんずにとって「きれい」なのは、そういう目で世界を見ている優香の方だ。空よりも、優香を見ていたい。花の形にデザインされた照明に照らされている優香を見て、あんずの心は満たされていた。


 本のようなメニュー表を開き、モーニングのページを飛ばす。

 「何食べようかな~」と言って、優香の眉はハの字に曲がる。


「パフェって言ってなかった?」

「パフェが食べたかったんだけど、メニュー見たらパンケーキも食べたくなっちゃった」

「両方食べちゃえ!」


う~太る~、と唸っている優香は華奢で、テニス部であるあんずよりもずっと細い。食べても太らない体質なのだろう。週に四回は食堂の百円ポテトを買っていて、運動もほとんどしない。「太る」はそういうノリと口癖のようなもので、実際は自分の体型にさほど興味がないようだ。体重計にも滅多に乗らないらしい。

 その優香のラフさに、あんずはとても安心している。それはあんずの物差しでは恋をしていない状態であるからだ。


 呼び鈴を鳴らすと、先程の店員がやって来た。あんずの注文のあとに、優香が続ける。店員が復唱し、欠けた微笑で頷く。

 あんずはパフェを注文した。なんだかんだ言って、たぶん優香は二つも頼まない。注文するはずだったコーヒーゼリーをやめにしたのは、パフェを優香にひとくちあげるためだけだった。私って健気だなと思ってから、それがただの自己満足であることに気付く。


「あんず、パフェにしたの?」


 少し嬉しそうに、優香が言う。頷けば、「ひとくち交換しよ!」と提案された。笑って頷く。優香の顔に花が咲く。それが見たかったのだ。優香は向日葵に似ている。夜な夜な花言葉を調べてから、あんずはずっとそう思っていた。


「やさし~! さすがあんず!」


 咲いた花々が、今度は優香の輪郭の外で飛んでいる。まるで半透明の緑の羽で舞う妖精のようだ、なんて考えてしまう。つくづく恋は呪いだと思う。恋とは、馬鹿になってしまう呪いをかけられている状態なのだ。それが解ける日まで、優香はどんなものにでもなる。天使にも、ダイヤモンドにも、四つ葉のクローバーにもなりうる。あんずは人間のままだ。


「優しいといえばさ」

「うん?」

「森先生、異動するらしいよ」

「えっ!」


 あんずは思わず大きな声を出した。大好きな先生の異動。理科担当で、化石のと五歳の娘の話が好き。穏やかなプテラノドンのような見た目の森先生は、生徒から人気が高かった。ええ、ともう一度ため息のような驚きを声に出すと、優香が可笑しそうな息を漏らした。


「うっそだよ~」

「えっ」


 向かい側に座っている優香が前のめりになり、にんまりと口角を上げる。優香はしょうもない嘘をよくつく。あんずはどちらかというと怒りに疎い性格で、こんな程度の嘘くらいで優香を咎めようとは毛ほども思わなかった。そのことは優香も分かっているようで「驚いた?」と日常会話のようなリズムで続ける。びっくりした、と答えてから、あんずはいつも通りの言葉を返す。


「なんですぐ嘘つくの」


 ここからはいつもの、お決まりのパターンで、優香がそれを笑いながら言う。


「あんずがかわいいからだよ」

 嘘だ、と思う。


 けれど、嘘でいいとあんずは思う。優香には幸せになってほしい。それを見届けるくらいなら許されるかもしれないけれど、そう導くのは自分の役目ではない。優香の未来に自分はいない。「私」が「俺」になる以外に方法はない。悲しいほど、あんずは自身の立場を理解していた。正確にいうと、理解しているつもりになっている。自分が予測できる正解が世界の正解であるとは限らないのに、あんずは、やはり恋という呪いにかかっているせいで、馬鹿な妄想だけを膨らませ続けているのであった。


 優香の注文した満月のようなケーキが机に運ばれてきた。遅れてあんずのパフェも到着し、二人は通過儀礼のようにスマホのカメラアプリを起動する。Dreamという名前のフィルターは、写真の雰囲気がくすんだ紫色へと変わる。あんずはそれを選び、優香の胴体が写るようにスイーツを撮った。無音で振動もないから、写真を撮ったという感覚が薄い。なんだか物足りなくて、あんずはもう一回シャッターボタンをタップした。今度は優香の毛先がちらりと写っていた。

 フォークで押さえながら、優香はぎこちなくケーキにナイフを入れる。切ったところからとろりと液体が流れる。マンゴーのような匂いがぷうんと漂ってきたから、それはマンゴーの何かなのかもしれない。きれいに食べるのが難しそうだ。


 とても自然な流れで、優香が切り出した。ケーキを切り分けている途中だったから、下を向いていたし目は伏せられていて、あんずが優香を見つめていても目が合うことはなかった。とても、自然な、流れ、だった。


「私ね、好きな人ができたんだ」


 ラフな格好で、ラフな声色で、優香はそう言った。目も合わせずに「応援してくれる?」と言うから、声を出して頷いた。川の流れに従っただけだった。

 やはり上手に食べるのは難しいようで、気が付けばたった数十秒ほどの間にケーキはぐちゃぐちゃになっていた。優香はナイフを使うのを諦めたようで、フォークで不揃いなサイズに切り分ける。どの仕草もラフというより雑で、暴力にも似ていた。あんずはそのケーキに自身の恋心を投影する。ぐちゃぐちゃになっていく。

 せめて、敵わないからと諦められるほどの人物であってほしかった。


「引かないでほしいんだけど、まあ、あんずは引かないって思ってるけど」


 という前置きのあと、優香が挙げたのは隣のクラスの女の子だった。「引くわけないじゃん」と言って、「いいと思うよ」と笑った。心臓が長距離走のあとのようになってしまって、うるさい。心にナイフを入れたのは、自分自身だったのかもしれない。


 応援するという、あんずの心にもない言葉に対し、優香は心から感謝を伝えた。それを聞いてもなお、あんずは続きの言葉を待っていた。ものすごくふざけた表情で、嘘だよ、と言ってほしい。


「あ! ひとくち!」


 思い出した! と、優香がパフェを指さす。不安定な手になんとか力を入れて掬い、生クリームと木苺が乗ったスプーンを優香の口へ持っていく。スプーン越しに触れたくちびるが柔らかくて、思わずそれを落としてしまいそうになった。


 どうしようもなく、嘘がいい、と思う。優香には幸せになってほしいし、その方向へ導く役目は自分ではない。きみの未来に私はいない。あんずは本当に、心の底からそう思っている。

 でも、そんなの、全部嘘だ。

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きみの未来に私はいない 橘 春 @synr_mtn

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