七・ミントティー

 それから四日後、南の街にアテルがやってきた。


 玄関先で彼女を迎えたエミリーは、再会の喜びより先に驚きを感じた。


 アテルの黒い前髪は汗で額に張り付き、顔は真っ赤に紅潮している。毛皮のコートは脱いでおり、全身から湯気が上がっていた。


「ど、どうしたんですか、アテルさん⁉ そんなに汗だくで……熱でもあるんじゃ?」

「いや、そんなことはなくて……」


 アテルは肩で息をしながら「駅から歩いてきたんですよ」と話す。その証拠に、彼女の靴には雪がたくさんついていた。


「あんまり積もってないのに馬車を使うのは、運賃が勿体ないと思ったんですよ。手紙と一緒に地図ももらっていたんで、何人かに道を尋ねながら来ました」

「えぇ……」


 エミリーには駅から自分の家まで歩いてきたアテルの体力が信じられなかった。アテルが狩人だからだろうか? それとも十六歳の若さゆえか? あるいは、単純に自分の体力がなさすぎるのか……


 恐らく、正解は三つ目だ。一瞬、エミリーが過去にスポーツで恥をかいた思い出――黒歴史の数々が頭の中を駆け巡る。


「と、とりあえず上がってください。喉も乾いたでしょうから、お茶でも……」


 手招きをするエミリーに、アテルは「それなら」と言って二つの紙袋を差し出す。


「これは?」

「クラリスが育てたカモミールとミントです。良かったらこれでお茶を淹れませんか?」

「わぁ、ありがとうございます!」


 袋を受け取ると、紙を通り抜けて爽やかな匂いが漂ってくる。アテルは今暑そうだから、ミントティーにしようかな? そんなことを考えながら、エミリーはアテルを応接間に案内する。


 応接間では、椅子に座ったソフィーが待っていた。


「久しぶり、ソフィーちゃん。元気だった?」


 アテルはソフィーと目線を合わせ、ささやくような声で話しかける。彼女の態度から優しさを感じ取ったのか、ソフィーも和んだ様子で返事をする。


「うん。クラリスちゃんは?」

「ごめんね、森の中を歩かせるのは危険だと思って、今日は連れて来れなかったの……」

「そうなんだ……」


 ソフィーはしょんぼりと肩を落とす。アテルは彼女の頭をゆっくりと撫でて、「春になったら連れてきてあげるよ」と微笑んだ。


 二人の会話からソフィーとアテルを一緒にしておいても大丈夫だと判断したエミリーは、お茶の準備をするために台所へ向かう。


 お湯を沸かしている間にティーポットを戸棚から取り出し、ミントの袋を開ける。匂いがより強くなり、エミリーの鼻を清涼な風が抜けていくようだった。


 茶色く乾燥したミントの葉をポットに入れ、そこに沸騰したお湯を注ぐ。葉の緑色が溶け出してきたところで蓋をして、カップと一緒に応接間に持っていく。


 応接間に戻ると、ソフィーとアテルは肩を並べてテーブルの上に広げた本を読んでいた。


「その本は?」


 エミリーの問いに、アテルは「クラリスの家にあった『スネーグレイヴと黒い犬』です」と答える。


 三人分のミントティーを淹れてカップを並べ終えると、エミリーもソフィーの肩越しに本を覗いてみた。図書館で読んだ本に書かれていた通り、ミハルの遺体が見つかる場面で終わっている。


「私、この結末がどうしても納得できなくて……」


 本のページを睨みながら、アテルは苦い顔を浮かべる。


「クラリスはこの本を読んで、自分もスネーグレイヴにさらわれるんじゃないかって、怖がってたんです……」


 アテルは真っ白になるくらい拳を握りしめていた。エミリーは彼女が今にも本を破り捨てそうに思えて、そっと肩に手を置く。


「アテルさん、スネーグレイヴは子どもをさらう死神なんかじゃありませんよ」

「どういうことですか?」

「実は、アテルさんにお見せしたいものがあるんです」


 エミリーはアテルにウインクをすると、再び応接間を出ていく。今度は台所ではなく書斎に向かい、昨日古本屋で買った本を持って戻る。


「何ですか、そのばっちい本?」


 眉をひそめるアテルに、エミリーは手にした本を見せた。


「これは『西の国』に伝わる民話を集めた本で、『スネーグレイヴと黒い犬』の原型となったお話が載っているんです」


 アテルの向かいに座ったエミリーは、ハーブティーを一口飲んでから『スネーグレイヴと黒い犬』のページを開く。


「この本には地域によって異なる、二つのスネーグレイヴの民話が収録されています。一つは山岳地帯に伝わる型で、こちらではミハルちゃんは亡くならず、スネーグレイヴに弟子入りして魔法使いになるんです」

「そんな話があるんですか⁉」


 アテルは驚いたように目を見開く。その顔は少し嬉しそうでもあった。


 エミリーはアテルが持ってきた『スネーグレイヴと黒い犬』を手に取り、出版年を確認する。初版が出てから十年以上後に出版されたものだった。


「やっぱり、これは改変が加えられたものですね」


 それを聴いて、アテルは前に身を乗り出す。


「ど、どういうことですか?」

「お手紙をもらった後、少し図書館で調べてみたんです……」


 エミリーは四日前の調査の結果を伝える。話を聞き終えたアテルは、ため息とともに「スネーグレイヴは優しい魔女だったんですね……」と漏らした。


「ええ。彼女の本来の姿は武神であり、子どもの守護神なんです」


 そっと本を閉じ、エミリーは表紙のスネーグレイヴの絵を見る。子どもを凍死させる死神と言われれば、確かにそう見える。だが、彼女の表情にはわずかに慈愛や哀愁も感じる。本の内容が改変されても、守護神としての性格が残っている証拠のように思えた。

 顔を上げたエミリーは、表紙のスネーグレイヴとアテルを見比べてみる。髪の色や肌の色は違うが、太く凛々しい眉毛は似ているような気がした。


「帰ったらクラリスちゃんに伝えてあげてください。スネーグレイヴはクラリスちゃんの味方だって」


 エミリーの言葉にアテルは頷きかけるが、すぐに首を横に振った。

「本当の結末は伝えます。でも、魔女なんかを当てにするつもりはありません。私はこの手で――自分の力でクラリス(あのこ)を守ります。その為に神の花嫁になったんですから」


 アテルは宣言するように拳を突き出した。


 しかし、そんな彼女を見ていると何故か笑いがこみ上げてきた。堪えきれなくなったエミリーは、声を上げて笑い出す。


「な、何で笑ってるんですか⁉」

「いや、ごめんなさい。アテルさんは本当にクラリスちゃんのことが大切なんだなって……」


 エミリーは笑いながらも、なんとかアテルの問いに答える。


 ソフィーも「クラリスちゃんは幸せ者だね」と言ったが、その声は震えていた。


「もう、そんなに笑わないでくださいよぉ……真面目に言ったのが恥ずかしく思えてきました……」


 アテルはさっきとは違う理由で頬を赤く染め、顔を隠すようにティーカップに口を付けた。

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