五・黒い犬

 空腹をお茶で紛らわしながら、ミハルはスネーグレイヴの帰りを待つことにした。だが、一杯、二杯、三杯と飲んでも、彼女が帰ってくる気配はない。


 ティーポットが空になると、ミハルは再び強い眠気に襲われた。せめてポットとカップをシンクに浸けようと思ったが、椅子から立つことすら億劫だった。


 そのまま食卓に突っ伏し、ミハルは眠りに引きずり込まれていった。



 眠っている間、ミハルは奇妙な夢を見た。


 ミハルは赤茶けた土の上に立ち、錆びついた鋼鉄の門を見上げていた。すくみあがってしまいそうなほど大きく、威圧的な門だった。


「よう小娘。まだ生きてるか?」


 低い男の声に呼ばれて、ミハルは思わず肩を跳ねあがらせる。


「だ、誰……?」


 恐る恐る声のした方に目を向けると、一匹の犬が爛々と光る赤い瞳でミハルを睨んでいた。ミハルはすぐに逃げ出そうとしたが、身体が石になったように動かない。


「逃げるのか? 安心しろ。獲って食ったりはしない」


 犬は黒い毛をぬらぬらと光らせながら、ミハルの周囲を歩き回る。「獲って食ったりはしない」とは言ったが、犬の動きは獲物を追い詰めた猟犬のものだった。


 今にも犬が襲いかかって来そうで、ミハルは悲鳴を上げることすらできない。


「悪人ほど長生きするもんだ。俺もスネーグレイヴあの女も、簡単には死なせてもらえない。そしてこの男も……」


 犬が門を示すと、ギリギリと部品を軋ませて扉が開き、一頭の獣がよろめくように出てきた。獣の醜さにミハルは目を逸らしそうになるが、その姿を凝視せずにはいられなかった。


 獣は身体こそ痩せこけた馬だったが、その顔は三日前に別れたミハルの父と瓜二つなのだ。


「お、お父さん⁉」


 黒い犬は「その通り、こいつはお前の父親だ」と答える。


「さあ、娘に何か言うことがあるんじゃないか?」


 犬は人面馬に変えられた父のほとんど骨と皮だけの脚に噛みつく。黄ばんだ鋭い牙が深く食い込み、赤黒い血が流れ出す。父は痛みに絶叫したが、彼の声は馬の嘶きにしか聴こえなかった。


「どうした? もう人語を忘れたか? ならば思い出すまで噛んでやろう!」


 黒い犬は三倍以上の大きさの父を押し倒し、脚や腹など所かまわず噛みつく。牙と強靭な顎で骨を砕き、皮を剥ぎ、肉を切り裂く。だが急所は外しているらしく、父が息絶える様子はない。父は身を悶えながら血の涙を浮かべ、ミハルが耳を塞ぎたくなるほどの悲鳴を上げた。


 それでも父は人語を発することはなかった。


「ここから娘の顔が見えるか? お前は彼女に何をくれた?」


 犬に嚙まれながら、父は虚ろな目をミハルに向ける。父がミハルに助けを求めているように思えたミハルは、思わず彼の元に駆け寄った。


「やめて! もうお父さんを痛めつけないで!」


 犬を押しのけ、父の首を抱き上げる。毛皮越しに息が喉を通る音が聴こえた。父はまだ生きている。


「赦すのか? その男を?」


 ミハルの背中に犬が問いかける。ミハルは振り返ることなく頷く。


「解ってるよ、お父さんが私を棄てたってこと。だけど、それでいいの……私を棄てたことで暮らしが楽になって、お父さんが生きていけるなら……」


 後ろで犬が不満げに鼻を鳴らすのを聞きながら、ミハルは震える声で続ける。


「私はもういいの。新しい居場所を見付けたから。だから、お父さんは私のことは気にせず、自分のために生きて……」


 ミハルの頬を生温い涙が伝い、父の首に落ちる。


「あ……ありが……とう……」

「ッ……⁉」


 ミハルは一瞬、自分の耳を疑った。目を見開き、父の顔を見る。間違いない。今の声は聞き慣れた父の声だった。


「ありがとう、ミハル……」


 そう言って、父は柔らかな笑みを浮かべる。久しぶり見る父の優しい笑顔に胸が熱くなり、ミハルはたまらず叫んだ。

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