四・魔女の家

 スネーグレイヴの家に入ったミハルは、食事の前に浴室で汚れた身体を洗った。


 もう何ヶ月も風呂に入っていなかったミハルは、お湯で身体を洗うことの心地良さを忘れていた。冷えた身体にお湯の温もりが沁み、ジワリと涙が滲んだ。


 自分では手が届かないので、背中はスネーグレイヴに洗ってもらった。彼女の優しい手つきを背中に感じていると、胸がギュッと締め付けられるように痛んだ。


 ついに涙をこらえきれなくなったミハルは、声を押さえて泣いた。


 本当はスネーグレイヴもミハルが泣いていることに気付いていたのかもしれない。だが、彼女は何も言わない代わりに、静かな声で歌った。子守歌のようでもあり、叙事詩の一部分のようでもある不思議な歌だった。



 風呂から上がると、ミハルはスネーグレイヴが用意した服に着替えた。衣装ケースにしまってあったはずなのに、ほんのり温かく、襟に首を通すとふわりとお日様の香りを感じる。


 さっきまでの胸の痛みを忘れて、ミハルは興味津々に尋ねる。


「この服、とってもいい匂い。まるで干したばかりみたい! これも魔法なの?」

「そうだよ。私の家の衣装ケースは、中に入れた服の時間が止まるの。だから、何時取り出しても干したてのお日様の香りがするんだよ」

「すご~い!」


 手品ではない本物の魔法を目にして、ミハルの心は踊った。


 スネーグレイヴは「もっとすごい魔法も見せてあげるよ」と言ってミハルを台所に案内する。


「今度はどんな魔法?」


 少し高い椅子に座ったミハルは、浮いた足をパタパタ揺らす。そんなミハルの前に、スネーグレイヴがティーポットを置いた。


「蓋を開けてごらん?」


 言われた通りミハルはティーポットの蓋を取ってみるが、中身は空っぽだ。仕掛けらしきものも無い。


「空っぽだよ?」

「じゃあ、今から私が呪文を唱えるから、ポットの中をよく見ててね……」


 ミハルはティーポットに顔を近づけ、底をじっと見つめる。


「いくよ……オーン・アミリタ・テイセイ・ハーラ・ルーン……」


 スネーグレイヴが不思議な呪文を唱える。すると、まるで泉が湧き出るようにポットの底に赤い液体が満ちていき、白い湯気が漂ってきた。


「わぁ……」


 ミハルは鼻をくすぐる紅茶の香りにため息を漏らす。


「今の呪文は薬を司る精霊にお祈りする言葉で、簡単に訳せば『秘薬よ、器に満ちよ』って意味なの」


 スネーグレイヴは呪文の意味を説明しながらカップに紅茶を注ぐ。そこへ白く固まった蜂蜜を入れて、スプーンでかき回してからミハルに渡すした。


「はい、どうぞ。熱いから気を付けてね」

「うん……いただきます」


 ミハルはふぅふぅと冷ましながらお茶をすする。ほのかな蜂蜜の甘みが口の中に広がり、身体の内から温もりがこみ上げてきた。


「美味しい?」


 スネーグレイヴの問いにミハルは大きく頷く。その反応を見てホッとしたような表情を浮かべた彼女は、ミハルを食卓に残してマントが掛けてあるハンガーの方へ歩いて行った。


「あれ、お姉さんは出かけるの?」

「ちょっと用事があるの。すぐ戻るからここで待っててね。お腹が空いたなら、そこのバスケットに夕ご飯が入ってるから食べていいよ」


 マントを羽織りながら、スネーグレイヴはテーブルの中央に置かれたバスケットを示す。


「解った。行ってらっしゃい……」

「行ってきます」


 ミハルに手を振り、スネーグレイヴは台所を出る。遠くで玄関のドアが閉まる音が聴こえた後、台所は急に静かになった。時々暖炉の薪がパチンと爆ぜる以外、音を立てるものはない。


 そんな静けさを破って、ミハルの腹の虫が間抜けな鳴き声を上げる。温かいお茶に刺激され、忘れていた空腹が蘇ってきた。


(夕ご飯……先に食べてて良いのかな?)


 ミハルは手を伸ばしてバスケットを引き寄せる。上にかかった布をめくると、きつね色に焼きあがったパイの表面が顔を出した。


 このパイも不思議なことに、焼きたてのように温かい。湯気とともに濃厚なバターが香り、ミハルの口の中に唾が溢れる。


(でも、私だけで食べるのは悪いかな? すぐ戻るって言ってたし、お姉さんが帰ってきたら一緒に食べよう)


 布でパイを隠し、ミハルはバスケットを元の位置に戻した。

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