三・微妙な親子
日が高く上ったころ、クラリスとソフィーを家に残して、アテルは村に向かった。
聖域である「おそろしの森」に、人が通るために道などない。その上、雪が積もればさらに足場が悪くなる。狩人でも雪に足を取られて動けなくなり、凍死する者が多い。
ましてや、南の街から来た商人や「西の国」の者は、森の歩き方を知らない。森をさまよい続けるうちに体力を消耗し、ほとんどが凍死するか獣に食われて命を落とす。クラリスの家にたどり着いたソフィーは運が良かったのだ。改めてそう思う。
雪に残されたオオツノジカの足跡を辿るように、アテルは村の方を目指す。獣の気配に注意を払いつつも、頭の片隅ではソフィーが森にやってきた理由を考えていた。
ソフィーは姉に会いたくないと言ったが、姉妹で喧嘩でもしたのだろうか? それで癇癪を起して村を飛び出し、歩いているうちに森に迷い込んでしまった……というところか。
確かに、人気の少ない森は、感情を整理するのには良い場所だ。アテルも小さい頃、兄と兄妹喧嘩をした後は森に入って気が住むまで弓の練習をしていることがあった。もっとも、あまり深くへは足を踏み入れることはないし、ましてや「おそろしの森」との境界へは絶対に近付かないようにしていた。だが、ソフィーにそれは解らなかったのだろう。
ふと、煙の臭いを感じてアテルは思考を中断する。木々の間を吹く風に、松の葉が燃えた臭いと、イノシシの干し肉を火で炙る匂いが混ざっている。
アテルは臭いのする方へ歩いていく。倒木によって上が開けた場所に、人が引くソリが置かれていた。その傍で、狩人の青年と「西の国」出身らしい若い女性が火を挟んで座っている。
アテルは青年の顔を見て、すぐに兄だと気付く。
「よう、兄さん!」
軽く手を上げ、兄に声をかける。兄は一瞬肩を跳ねあがらせた後、呆れたような顔をこちらに向けてきた。
「なんだ、アテルか……脅かすなよ……」
「ごめんて……それより、こんなところで何してんの?」
「ああ……そのことなんだがな……」
兄は女性の方を示す。彼女はアテルに向かって軽く会釈した。
「彼女は『西の国』から来たエミリーさんだ。何でも、俺たち狩人が文字を持たないことに興味があるそうで、口伝叙事詩の調査のために一昨日から村に滞在している」
エミリーと紹介された女性は、兄から引き継いで話し始める。
「私は大学で民俗学の研究をしていて、フィールドワークの一環であなた方の村を訪れていたんです。ただ、一緒に連れてきたはずの娘が、昨日の夕方頃からいなくなってしまって……」
「娘?」
兄は頷き、アテルに尋ねる。
「お前、この森で小さな女の子を見なかったか? ちょうど、クラリスと同じくらいの歳格好の、『西の国』の子どもだ」
「う~ん……今、家でソフィーって子を預かってるけど、その子のこと?」
アテルの話を聴いて、エミリーが立ち上がる。
「その子です! 保護してくれたんですね⁉ 良かった……」
エミリーはホッと息をつき、脱力したように同じ場所に腰を下ろす。兄も安心したように微笑み、「ソフィーちゃんには、神のご加護があったんだな」と漏らした。
「神?」
エミリーは兄の口から出た単語に興味を示す。そんな彼女に、兄は「おそろしの森」が獣=神の聖域であること、クラリスが森の神として祀られていること、アテルがある種の生贄として神の花嫁になったことなどを話す。エミリーは真剣な表情でその話に聴き入り、内容を手帳に書き留めていた。
「獣の聖域に住まう者は、ヒトではなく獣として扱う……なるほど、そういう掟を設けることで、ヒトと動物の距離を保ちながら、森林資源の持続的な利用を可能にしているんですねぇ……」
エミリーの言葉に、アテルと兄はそろって首をかしげる。よく解らないが、どうやらエミリーは狩人の掟に感心しているらしい。
「まぁ、ソフィーちゃんの無事が解ったことだし、腹ごしらえをしたら迎えに行きましょう」
兄がそう言うと、エミリーも頷いた。それから、兄はアテルの方を向いて「案内頼むぞ」と言った。
「それは良いんだけど……」
アテルは頭を掻きながら、エミリーの方に目をやる。
「実は、ソフィーちゃんが村に帰りたくないって言ってるんですよ。お姉さんと何かあったみたいで、今は会いたくないそうです……」
それを聞いたエミリーの顔が曇る。やはり彼女は何かを知っているようだ。
「ソフィーちゃんにお姉さんはいるんですか?」
アテルの問いに、エミリーは首を横に振る。
「いえ……あの子が『お姉ちゃん』と呼んでいるのは、私のことなんです」
「それは一体どういうことですか?」
今度は兄がエミリーに尋ねる。
「混乱させてしまってごめんなさい。ソフィーは実の娘ではなく、養子なんです……」
それから、エミリーはソフィーとの関係について話し始めた。
ソフィーの父は「西の国」にある大学で民俗学の研究をしており、彼の教え子であるエミリーもその研究を手伝っていた。ソフィーは父に連れられて研究室を訪れることがあり、エミリーは小さい頃から彼女を知っていた。そして、いつしかソフィーはエミリーを「お姉ちゃん」と呼ぶほど懐いていた。
ソフィーの母は彼女が幼い時に既に亡くなり、遺産相続のことで揉めたために、頼れる親戚はいなかった。その上、父も重い病を抱えており、医師からは先は長くないと言われていた。死を覚悟したソフィーの父は遺言書を用意し、自分の研究成果と一人娘を、秘蔵っ子であるエミリーに託すことにした。
だが、父の死は思っていたよりもずっと早く訪れた。遺言書の内容を知った時、エミリーはまだ結婚もしていなかった。ソフィーの方も、姉のように思っていた女性がいきなり母親になったことに混乱していた。
さらに、エミリーはソフィーの父の研究を引き継ぐために「西の国」を離れ、狩人の村の南にある街へ移り住んだ。その急激な環境の変化が、ただでさえ引っ込み思案なソフィーの心に負荷をかけていたようだ。
「私も急なことで、まだ心の準備ができていませんでした。だから、これからあの子にどう接すればいいのか解らなくて……何か良い刺激になれば、と思ってフィールドワークに同行させていたのですが、余計に疲れさせてしまったのかも……」
身の上を語る間、エミリーは物憂げな瞳を焚火に向けていた。オレンジ色の炎を写すその瞳は、ソフィーと違って濃い青色をしていた。
アテルは何となく、エミリーたちと自分たちが似ているような気がした。もしかしたら、クラリスもいきなりアテルと夫婦になったことに戸惑っているのかもしれない。変に意識して、ソフィーと同じく心の疲れが溜まっているなら、少しでも楽にしてやりたい。もちろん、エミリーとソフィーも……
「一先ず、ソフィーちゃんと話し合って見ませんか? エミリーさんだって環境の変化に戸惑っているんですし、ちゃんとお互いの気持ちを伝えあいましょうよ? 私もできる限りのお手伝いがしたいです!」
アテルの言葉に、エミリーは「そうですね」と頷く。だが、彼女の表情は晴れないままだった。
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