第二章 こころの暗号

一・迷子

 小鳥のさえずりを聴いて、アテルは目を覚ます。窓から差し込む光に気付くと、すぐにベッドを抜け出し、外の様子を窺う。


 雪を被った木々の間に、群青色の空が開けている。昨日は頭上に蓋をしていた分厚い雲も、今朝は細切れになって漂っていた。夜の間に雪は止んだようだ。


 ふと、窓のすぐ側の木の枝が揺れる。見ると、白い綿玉のような生き物が、黒くつぶらな瞳をこちらに向けていた。


「おはよう、シマエナガくん」


 アテルが声をかけても、シマエナガは首をかしげるだけだった。


「かわいい~♪」


 今度は隣から幼い女の子の声が聴こえる。さっきまで寝ていたはずのクラリスが、いつの間にか傍に来ていた。クラリスは翡翠色の瞳をキラキラと輝かせ、枝にとまったシマエナガを興味津々で見つめていた。


 シマエナガもクラリスの方を不思議そうに見ていたが、そのうち飽きたのか、そっぽを向いて飛んで行ってしまった。シマエナガの姿が空に消えた後、アテルはクラリスに声をかける。


「おはよう、クラリス」

「えへへ……アテルさん、おはよう!」


 クラリスは太陽のように眩しい笑顔を咲かせる。アテルは思わず口元が緩み、自然と伸びた腕がクラリスの小さな身体を抱き寄せる。クラリスもアテルの胴に短い腕を回し、胸に顔を押し付けてきた。プラチナブロンドの髪に顔を埋めると、お日様の匂いが胸いっぱいに広がる。


 一日中でもこの匂いを嗅いでいたい……アテルはそう思ったが、のんびりしている訳にはいかない。冬の朝は忙しい。朝のスキンシップもほどほどにして、クラリスにやるべきことを伝える。


「じゃあ、私は雪かきをしてくるから、クラリスは朝ごはんの用意をしてくれる?」

「うん!」


 クラリスは元気な声で応え、ドアの方へパタパタと駆けて行った。


 アテルは動きやすい服装に着替え、その上から熊の毛皮を羽織って外に出る。


 玄関の扉を開けると、膝くらいまで積もった雪がすぐそこまで押し寄せていた。雪囲いをして多少マシにはなったが、放っておけば完全に出入り口が塞がれてしまうだろう。


 鉄の鍬で雪をすくっては脇へ投げ、通り道となる溝を掘っていく。積もったばかりの雪はまだ軽かったが、下の方は固められて重くなっていた。アテルはまだ十六歳。腰や肩を痛めるような歳ではないが、一人でこの量をこなすのはさすがに骨が折れる。


 作業が終わるころにはアテルの服の中は汗でびっしょり濡れていた。アテルは息をつき、襟元を開ける。もわりと湯気が立ち上り、入れ替わるように吹き込んだ冷たい風が心地良い。


「やっぱり私一人じゃ大変だなぁ……クラリスもまだ小さくて手伝えないし……」


 誰に言う訳でもなく漏らした時、視界の隅で何かが動いた。アテルは瞬時に臨戦態勢を整える。魔物が住むとされるこの「おそろしの森」に、人が入ってくることはまずありえない。オオカミか? それともヒグマか? アテルは狩りの時ように耳を澄まし、獣の気配を探る。


 木の影で雪が跳ねた。何かがそこにいるのだ。弓矢を家の中に置いてきたことを後悔しながらも、アテルは鍬をしっかりと握りしめ、ゆっくりと木に歩み寄る。


 唐突に、アテルの前に何かが飛び出す。アテルは反射的に鍬鍬を振り上げた。


「ひゃっ……!」


 飛び出してきたその生き物は、小さく悲鳴を上げてうずくまった。オオカミでもヒグマでもない、細長い二本足で歩く生き物――人間だ。しかも、クラリスと同じくらいの年格好の女の子だ。


「あっ! ご、ゴメン……脅かすつもりはなかったの……」


 慌てて鍬を下ろし、アテルは女の子に呼びかける。


 女の子は恐る恐る顔を上げた。あどけなさを感じるが、目鼻立ちのくっきりした、「西の国」の者らしい顔だった。二重まぶたの下では、彼女の琥珀色の瞳が怯えたように震えている。


「キミ、大丈夫? どうしてこの森にいるの?」


 アテルの問いに女の子は答えない。雪の上に視線を落とし、黙り込んでしまった。

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