五・二人の食卓

 アテルの兄とお爺さんが帰った後、レンガ造りの壁の前にはクラリスたちだけが残された。嫁入りとは言うが、二人が置いていった荷物は狩りの道具と、アテルがいつも着ている青い着物が一着のみ。必要最低限のものしか入っていない、あまりにも侘しい嫁入り道具だ。


「着替え、少ないね……」


 荷物の中身を確認したクラリスは、ポツンと漏らす。まるで、アテルがこの森に棄てられたようにも思えた。


「まぁ、一度にたくさんの荷物をこの森に持ち込むのは大変だからね……追々取りに行ったり、届けてもらったりするつもりだよ」


「でも、それまでアテルさんの服はこの一着だけじゃん……花嫁衣装を普段着にするわけにもいかないんでしょ?」


 クラリスの問いに、アテルは少し躊躇いがちに答える。


「それなんだけど……亡くなったおばあちゃんの服、まだとってあったでしょ? あの中から何着か貸してもらおうと思ってたんだ……」


 そう言った後に、アテルは「嫌だったら別にいいんだよ」と付け足す。クラリスはその言葉の意味が解らなかった。祖母の服を彼女に着せることを、嫌がる理由はない。


「大丈夫だよ! おばあちゃんの服だって、誰かに着てもらった方が嬉しいと思うし!」


「本当?」


 クラリスは大きく頷く。


 家の中に入ると、クラリスは祖母のクローゼットを開けて、彼女がお気に入りだった服を取り出す。ベージュのスカートと、襟のところにチューリップの刺繍が入ったブラウス。刺繍は料理中に付いたシミを隠すために、クラリスが施したものだ。チューリップが好きな祖母が、とても喜んでくれたのを覚えている。


 空いていた衣装ケースに花嫁衣装をしまうと、さっそくアテルにそれらを着てもらった。


「こういう服、初めて着るけど……変じゃないかな?」


 姿見の前でくるくると回りながら、アテルは着こなしを確認する。一周回ってこちらを振り返った瞬間、クラリスは彼女に祖母の面影を見た。胸の奥から何かがこみ上げてきて、思わずアテルに抱き着く。


「ど、どうしたの?」


 戸惑いながらも、アテルの腕がクラリスを包み込む。


「なんだか、おばあちゃんが生き返ったみたいに思えたから……」


「あ……思い出させちゃったんだね……ごめん。やっぱりいつもの服に着替えた方が良い?」


 クラリスは首を横に振り、「そのままでいて!」と懇願する。


「そのままでいいの! このブラウスから、おばあちゃんの匂いがするの。でも、アテルさんの匂いも感じる……おばあちゃんとアテルさんが一緒に抱きしめてくれてるみたい……」


 それを聴いて、アテルがフッと笑う。


「解った。じゃあ、おばあちゃんの服、私がもらうね。大切する」


「あ、ありが……」


 「ありがとう」と言いかけたクラリスの声に、壊れたバイオリンのような音が重なった。どうやら、その音はクラリスのお腹から聞こえてきたらしい。


「お腹空いてる?」


「うん……もうすぐ晩御飯の時間だしね」


「じゃあ、ご馳走もらってきたから、それ食べようか?」


「ご馳走⁉」


 クラリスは耳の下に痛みを感じる。「ご馳走」という単語を聴いて、唾が出てきたのだ。


 アテルは荷物の中から竹の皮の包みを取り出し、それを持って居間に向かう。クラリスは彼女の後ろについていき、包みの中身を尋ねた。


「何が入ってるの?」


「見てごらん……」


 テーブルの上に包みを置いたアテルは、ゆっくりと紐をほどく。クラリスは宝箱を開けるような気分で、彼女の手元を凝視していた。竹の皮の中からは、見たことのない茶色いソースに漬け込まれた赤身肉が出てきた。


「お肉!」


 久しぶりに燻製ではない生肉を見たクラリスは、思わず声を出す。


「味噌漬けにしたイノシシの肉だよ。私とクラリスの結婚祝いってことで、父さんが持たせてくれたの」


 アテルが言う「ミソ」がどんなものなのかは解らないが、クラリスの胃袋はその香りに反応し、「早く食わせろ」と言わんばかりにうねる。


 アテルは壁にかけてあったフライパンを金網に乗せ、料理を始めようとしていた。彼女がエプロンを着けいないことに気付いたクラリスは、慌てて制止する。


「ちょっと待って!」


「?」


 キョトンとしているアテルを残して、クラリスは再び祖母のクローゼットに向かう。祖母が使っていたエプロンを引っ張り出し、それを持って居間に戻ってくる。


「これ、着けて」


 クラリスはエプロンをアテルに渡す。


「あぁ……おばあちゃんの服、汚すと悪いからね」


 彼女はエプロンの用途を悟ったらしい。紐の結び方をクラリスに教えられながらも、手早くエプロンを身に着ける。


「これなら、肉の油とか味噌が跳ねても大丈夫だね!」


「うん……」


 エプロン姿のアテルを見て、クラリスは不思議な感覚に襲われた。まるで彼女が祖母の魂を吸収し、同化していくように思える。祖母がこの世に残した何かを、アテルが受け継いでいるのかもしれない。


 そんな不思議な感慨を抱いた直後、クラリスの嗅覚が再び反応する。アテルがフライパンにイノシシの肉を乗せ、焦げた味噌と油が美味しそうな香りを放っている。アテルが肉をひっくり返すと、フライパンが心地よい音色を奏でる。クラリスの口の中は、もはや唾の洪水だった。


「わぁ……お、美味しそう!」


「いやぁ……私も従妹の出産祝いの時に食べたのが最後だから……イヒヒッ……」


 焼きあがった肉を前に、アテルも思わず笑みをこぼす。


「はい、あーん……」


 そう言ってアテルは、ナイフで切り分けた肉の一切れをクラリスに差し出してきた。親鳥から餌をもらうヒナのように口を開け、クラリスは肉を頬張る。少し熱かったが、あふれ出した肉汁の甘みがそれを忘れさせる。味噌の塩気が油の甘みをさらに引き立て、さっきよりも濃密な味噌の香りが鼻に抜ける。


「美味しい?」


 アテルの問いに、クラリスは悶絶で答える。


「ん~♪」


「美味しんだね、良かったぁ! じゃあ私も……」


 自分の分を口に入れようとしたアテルを、クラリスは止める。彼女はクラリスがしたいことが解ったらしく、肉を刺したフォークを渡してくれた。


「はい、あーん!」


 先ほどアテルがしてくれたように、クラリスは彼女に肉を食べさせる。肉を口に入れた瞬間、アテルの顔は喜びに歪んだ。


「こ、これはたまんない!」


 アテルは口を押え、身をよじる。そんな彼女の反応が可笑しくて、クラリスも笑ってしまう。


「アテルさんったら、大げさだよ!」


「だって……すごく美味しんだもん!」


「だからって、そんな笑うことないじゃん!」


 そう言ったものの、クラリスはアテルの言葉に同意していた。こんなに美味しい夕食は、本当に久しぶりな気がする。やはり、誰かと一緒に食べることは、一番の調味料らしい。クラリスはしみじみとこぼす。


「これからは、毎日こんな美味しいご飯が食べられるんだね……」


「そうだよ。毎日、二人で……」


 スッとアテルの手が伸び、クラリスの頬に触れた。

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