二・狩人のアテル
日が大分高くなった頃、クラリスは動物が雪を踏む音を聴いた。足音のリズムから、恐らく二本足の動物――人間だろう。
「おそろしの森」には、人食いの魔物が住むと言い伝えられている。好き好んで入ってくる人間はいない。だが、今聞こえている足音の主は、その好き好んで魔物のいる森に入ってくる人間だ。
編み物をしていたクラリスは、道具を机の上に放り出して玄関に向かう。早く彼女に会いたい! その一心で玄関の扉に飛びつくが、積もった雪が重くてびくともしない。何度か体当たりしていると、扉の向こうから若い女性の声がした。
「クラリス? いる?」
その声を聴いて、クラリスの胸が高鳴る。
「いるよ! すぐに扉を開けるから……」
クラリスが必死な様子に、女性はクスクスと笑う。
「無理しないで。雪どかしてあげるから、ちょっと待っててね」
板一枚挟んだ向こう側に彼女がいるのに……クラリスはもどかしく思ったが、言う通りにした。扉の向こうからは、鍬で雪をかく音が聴こえる。雪をすくっては放って、叩いて固めて……その音が止んだ時、彼女は「いいよ」と合図をした。
「アテルさん!」
クラリスは家から飛び出すなり、彼女――アテルに抱き着く。
「うぐッ……クラリスってば、痛いって!」
アテルがうめくが、クラリスは腕の力を弱めない。アテルの胸に顔を押し付け、彼女の匂いを嗅ぐ。ちょっと獣臭いが、クラリスはこの匂いを嗅いでいるときが一番安心する。
「ちょっ、一旦離れて……続きは中に入ってからにしよう?」
アテルにそう言われて、クラリスは渋々身体を離す。顔を上げると、青い前閉じの着物の上に、クマの毛皮を羽織った女性が目に入る。いかにも狩人の娘らしく、大きな鉄の鍬を手にし、背中に弓と矢筒を背負っている。彼女の髪と瞳は炭のように黒く、太い眉が凛々しい印象を与える。プラチナブロンドの髪と、エメラルドグリーンの瞳を持つクラリスとは対照的だ。
だが、例え髪の色も瞳の色も違ったとしても、クラリスにとってアテルは大切な人だった。友だちよりももっと近くて、姉よりは少し遠い。そんな微妙な距離感が心地よかった。
クラリスはアテルの手をグイグイと引っ張って家の中に入れる。アテルはよろめきつつも、片手で玄関の扉を閉め、壁に鍬を立てかけながらクラリスについてきた。
「来てくれたんだぁ!」
荷物を下ろしたアテルを椅子に座らせるなり、クラリスは彼女の膝の上に乗り、胴に短い腕を巻きつける。クラリスの頭をポンポンと撫でながら、アテルは彼女が森に来た経緯を語る。
「いや、昨日はフクロウが妙な鳴き方をしててね。爺ちゃんは雪が降るかもって言ってた。そしたら案の定……ね。クラリスは小っちゃいから、一人じゃ雪かきできないと思って、手伝いに来てあげたんだよ」
「おじいちゃんすごーい! フクロウの言葉が解るの⁉」
目を輝かせるクラリスに、アテルは頷く。
「そうだよ。爺ちゃんの目はもう見えないけど、鳥や獣が話すのが聴こえるんだ。フクロウは親切だから、私たちに本当の天気を教えてくれる。でもワタリガラスは意地悪だから、嘘の天気しか伝えない。あいつらが晴れって言った時は、絶対雨が降る。雨って言ったら逆。信じていいのは、曇りと言った時だけ」
クラリスはアテルから森の外の話を聴くのが大好きだった。狩人の村での生活や狩りの時の武勇伝、お爺さんの口から語られる、目に見えない世界の話……アテルが家を訪ねて来る度に、クラリスは日が沈むまで彼女の話に聞き入っていた。
「いいなぁ……私もアテルさんのおじいちゃんみたいに、動物の声が聴けるようになりたい……」
「どうしてそう思うの?」
アテルに尋ねられ、クラリスは答えに詰まる。「ハーブティー淹れるね」と伝えてアテルの膝から降り、薬缶を火にかける。ティーポットに乾燥させたハーブを入れながら、クラリスはぽつぽつとアテルの問いに答えていった。
「寂しいの……アテルさんが来てくれた時以外、誰もお話ししてくれないから……」
「ああ……」
アテルは事情を察したらしい。
クラリスがアテルと出会ったのは、今から二年前。そのころ九歳だったクラリスは、祖母と二人で暮らしていた。しかしある日、祖母は森の外に出かけたきり帰ってこなかった。祖母が出かけてから三日後、クラリスの家に初めてアテルが尋ねてきた。そして、彼女は祖母がヒグマに襲われて死んだことを伝えたのだ。
「村の皆は、私が森の外で暮らした方がいいって思ってるの?」
ポットにお湯を注ぎながら、クラリスは尋ねる。アテルは「まぁね」と返す。
「兄さんと父さんはそう言ってる。だって、ここは『おそろしの森』だからね。魔物意外にも、オオカミやヒグマ、オオツノジカみたいな危険な動物がたくさんいる。小さい女の子を一人にしておくのは心配だよ」
アテルが口にした言葉は、今までに何度も聴かされた。初めて会ったころ、彼女はクラリスを執拗に村に連れて行こうとしていた。食べ物を届けてくれる度に、クラリスは「いつになったら村に来るの?」と訊かれた。今でこそアテルは半ば諦めているが、他の村人はクラリスがこの森で暮らしていることをよく思っていないらしい。時々アテル以外の狩人が訪ねてきて、強引にクラリスを連れ出そうとすることもある。
出来上がったハーブティーを持ってアテルの隣に座ったクラリスは、彼女にティーカップを差し出す。カップを受け取ったアテルは鼻を近づけて香りを嗅ぎ、少し口に含む。
「美味しいね……ハッカの爽やかな香りがする。私や兄さんが同じ葉っぱを使っても、こんなまろやかな味にはならない……」
アテルはハーブティーの感想を話しているだけなのに、クラリスには彼女が遠回しに「村に来い」と言っているように聴こえた。村に来て、狩人たちにハーブティーを入れて欲しい、と。それはクラリスにとって受け入れがたいことだった。
「私、村には行きたくない。私がこの家を出ていったら、おばあちゃんが一人になっちゃう……おばあちゃんとの思い出が、全部雪に埋もれちゃう……」
クラリスはカップを手で包み込む。暖炉の前にいるのに、手がひどくかじかんでいる。何だか寒気もして、身体が震えてしまう。
それに気付いたアテルが、カップをテーブルに置き、クラリスの肩に腕を回してきた。クラリスもカップを置いて、彼女に身を預ける。クラリスの頭を胸に押し付け、アテルは優しく語りかける。
「本当はね、私もクラリスを村に迎えたいと思ってる。私の妹にして、一緒に暮らしたいって……でも、クラリスがこの家を離れたくないと思ってるなら、無理強いはしないよ」
アテルの手がプラチナブロンドの髪を撫でる。クラリスは鼻の奥がツン痛み、目尻から熱い液体が流れ出るのを感じた。
「私も、アテルさんがお姉ちゃんになってくれたら良いと思ってる……でも、村には行きたくない! この家で、私とハーブを育てながら暮らしてほしい……」
「ダメだよ……人間がこの森に住むことは許されていない……この森は獣が住む世界って決められているんだよ」
クラリスは前にアテルから聴いた話を思い出す。狩人たちは村を「人が住む世界」、森を「獣が住む世界」としており、狩りの時以外は森に立ち入ることを禁じているらしい。さらに、「おそろしの森」は獣たちの聖域であり、特別な理由が無い限り立ち入りは許されない。村人たちがクラリスを連れ出そうとしている背景には、自然との距離感を保とうとする狩人たちの生き方が関係していた。
「私、別に森に悪い事してないよ……ハーブを育てて、木の実を摘んで……たくさん木を切ったり、動物をいじめたりしてないもん……」
「そうだね。たしかに、クラリスは森を傷つけるようなことはしていない。でも、森の中に家を作るのは、あんまり良い事じゃないんだよ。人間の作ったものを自然の中に持ち込めば、獣たちや神々の怒りを買う……」
「ずっとおばあちゃんと暮らしてきたの! この森で! 私はおばあちゃんと同じくらいの歳になるまで、この森にいたい!」
そして、アテルと一緒に暮らしたい……言外に付け足し、クラリスは彼女の胸にすがりついた。そんなクラリスを、アテルは力いっぱい抱きしめる。しばらくの間、クラリスはアテルに抱かれて泣きじゃくっていた。
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