大嫌いな朝

前花しずく

大嫌いな朝、そしておはよう

 朝が嫌いだ。遮光カーテンから漏れる日光と、外から漏れ聞こえてくる鳥の鳴き声などの雑音。布団から出た瞬間に襲ってくる冷気。

「なつき! 早く降りていらっしゃい!!」

 階下から聞こえる母親のやかましい声。何もかもが嫌いだ。

 寒い中での着替え、冷たい水での洗顔、直らない寝ぐせ、時間が取られる割にさして綺麗にはならない歯磨き。そしてなんと言っても……。

「おはよう。ほらもうパン焼けてるから食べちゃいなさい」

『おはようございます! 八時のニュースをお伝えします!』

「おはようなつき! 今日もなんか元気なさげだね」

「お、なつきじゃん。おはよ」

 朝の起きた瞬間から怒涛の勢いで襲ってくるこの言葉が、とにかく心底嫌いだ。彼らは善意で言っているのだろうが、その善意があまりにも眩しすぎて吐き気を催してしまうのだ。自分にはそんな輝きはないのだから。

「おはよーございます!」

「えー、みなさん、おはようございます」

 母親、クラスの男子、通りすがりの小学生、クラスの女子、校長、そしてテレビまでもにその言葉をぶつけられる。相手のことを考えているようで考えていない、明るさの押しつけみたいな、そんな言葉。

 なんだよ、そんなに適応できない人間を嘲笑いたいかよ。明るくなくちゃ生きちゃいけねーのかよ。そんな心の叫びをぐっと胸の中に押し込んで、今日もその場を取り繕う。明るくしようと努める。でもやっぱり自分は明るくなれなくて、ブラックホールみたいに暗い。視野も心も先行きも、暗い。

「おかえり。早かったじゃない」

 家に帰ったらその叫びをこらえて布団にもぐる。厚手の布団を力いっぱい、絞め殺すみたいに抱きしめて、静かに心の中で叫ぶ。叫ぶ。たまに脳内に湧いて出てくる人間に襲い掛かる。それで気が晴れたような錯覚に陥ってから夕飯を食べに行く。虚ろ。


「なつき! 早く降りていらっしゃい!!」

 やかましい母親の声。大嫌いな朝だ。ああ、また朝だ。

 もう何回朝を迎えたか分からない。今まで生きてきて何度あの言葉を聞いたろう。いい加減に気が狂いそうだ。布団を深くかぶり、日光が瞼を透過してこないようにする。

 もう朝なんて来なくていいのに。怠惰な自分を布団は相変わらず黙って包み込む。少しくらい、休ませてくれる世界があればいいのに。


 目を開けるとそこはどこかの雪原だった。足が冷たい。裸足じゃないか。靴も履かずにこんなところへ来るなんて、自分はいったいどうしたのだろうか。自分の身体を見れば、身に着けているのは寝ている時に着ている黒いパーカーにジャージだった。そうだ、確かあの時二度寝をして……。

 その時、目の前の景色がぐわんとねじれた。自分の立っている地面が渦を巻く。そこに意識だけが吸い込まれていく。そうか、夢か。夢を見ているんだな。そう思うと焦りというものが消えて軽い気持ちで目の前に流れる映像を見ることができた。

 ねじれた景色はまた再構築されていき、やがて眼下に広大な森が広がった。自分がいるところが崖の上になったらしい。遠くまで見渡せるそれは、まるでとてつもなく大きい緑の羽毛布団のようだった。

 こんな世界に生まれていればなあ……。ないものねだりだとは分かっているが、そう思わずにはいられなかった。それほど目の前に見える光景は普段見ている景色の何百倍も綺麗だったし、自分が望んでいるものであった。

 スケールのでかい景色に目を奪われていた時、ふと後ろに何者かの気配を感じて振り返る。そこには大きめの白いTシャツを着た、髪の長い人が立っていた。Tシャツの袖からすーっと伸びている折れそうな腕をひじで折って、てのひらをこっちに向けた。

「おはよう」

 その人はそう言ってはにかむ。この人を私は知っている。それもかなり昔から。……先輩? そうだ、自分はこの人を先輩と呼んでいた。なんで忘れていたんだろう。そうだ、先輩だ、先輩じゃないか。

 先輩の発したその言葉は、自分の大嫌いな言葉のはずだった。でも何故か先輩のその言葉は心臓に刺さらず、それどころか心臓を包んでくれるような温かさを感じた。

「お、はよう」

 普段言わないからぎこちない感じで返すと、それに対しても先輩はクスッと笑った。そんな笑わなくてもいいのに、と思ったが、クラスメイトに笑われるような不快感は覚えなかったから、自分もつられて笑った。

 ひとしきり笑うと、先輩はどこかに向かって歩き始めた。「どこ行くの」と聞いても先輩は目を合わせてくるだけで何も言わない。それでも先輩とならそれで十分な気がした。

 着いたのは魚の水槽がたくさんある場所だった。グッピーとかいうやつだろうか、尾びれが水色とかピンクに輝く小さな魚たちが棚に置かれた水槽の中で寛いでいた。

「この子たちは?」

 また訊ねてみたけれど、先輩は応えなかった。応える代わりに先輩は人差し指を水槽の前に持っていった。するとそこに数匹の魚たちが集まってきて、口をパクパクさせた。かわいいやつらだ。先輩はひとしきり魚と戯れると、また方向転換して歩き出した。自分も離れないようについていく。

 次に現れたのは巨大な絵だった。キャンバスではなくシャッターに描かれている絵。それは恐らく落書きのような気もしたけれど、でも何故か親近感が湧いた。

「これ、なんだと思う?」

 訊いてもやはり先輩は応えない。先輩はどこから出したのかカラースプレーを持って、その絵の上に吹き付けた。先輩が描いたのは「☆」だった。それが何を意味するかは分からないけど、何か意味があるんだろうと思った。

 先輩は今度、スプレーを自分に渡してきた。特に描きたいものとかはなかったので、昔見てたアニメのキャラクターだとか、某人間を描いた。いびつになってしまったけれど、それは紛れもなく自分の作品だった。

 また何も言わずに歩き出す。今度やってきたのは石畳の道だった。白と黒、そして灰色。長方形だったり正方形だったり、たまに端の方が三角形になったりしていた。

 先輩はそこでぴょんぴょんと飛び跳ね始めた。見ていると、先輩が白い部分しか踏んでないのが分かった。自分も先輩の真似をして白い部分だけを渡った。白い部分だけ歩いたって何にもならないけれど、何にもならなくても何故か心躍るものがある気がした。

 その次に辿り着いたのはは小さなキャンドルが横に並べられた夜道だった。どこかの神社の参道だろうか。神秘的と言ったら月並みだけれど、まさにそうとしか言えない光景だった。

 先輩が一段一段石段を登っていくので自分も倣って一段一段踏み締める。キャンドルの日に照らされた石が淡くオレンジ色に輝いていて、どこからか狐が列になって現れそうな感じだ。石をそのまま使っているせいでいびつになっている段に気を付けながら、気持ち駆け足で進んでいく。

 階段をぬけるとそこにはお洒落な洋風のカフェがあった。外壁にはクリーム色に塗られた木材が貼ってあって、そこに大きな大きな窓が一つ空いていた。お店の中も木目調で、机と椅子まで全部濃いめの色をした木でできた。先輩が机においてあったフロートを黙って飲み始めたから、自分もその向かいに座ってそこにあったフロートを吸った。ほんのり桃の香りがして、少しだけバニラアイスの甘みが舌に残った。

 先輩はお店を出てまた歩いた。もうどこに行くかを聞いたりしない。いずれどこかに辿り着く。それだけだと思った。

 次に見えてきたのは……。見えてきたのは。ああ、これは。

「先輩」

 呼び止めると、先輩はその場でぴたりと立ち止まった。

「なんで戻ってきたの」

 そこは自分の部屋だった。もう戻りたくもない、いつも通りの部屋。そこの乱雑になった水色のベッドの上に、布団にくるまって丸まったみずぼらしい自分がいた。

 先輩はこっちを振り返る。無表情だけど無表情じゃない、よく分からない顔をして自分の後ろを指差す。そっちへ振り向く。

 そこには通学途中にあるブロック塀があった。そこに二枚のポスターが貼ってあって、一枚は崖の上から森を見下ろす写真が使われている。旅行代理店のポスターらしかった。その隣には雨風に晒されたせいか真っ白になったポスターが貼られたままになっていた。

 また先輩が別の方を指す。そこにはいつも行く本屋の向かいにある、胡散臭い窓ガラスが真っ黒な店があった。恐る恐る近づいてみる。少しだけ開いたドアの隙間から覗いた。店の中に人の気配はない。そこにはただ色とりどりの水槽が見えるだけだった。

 もう一度振り向くと、高速道路のアンダーパスがあった。階段を下ってアンダーパスへ行くと、何が仕舞ってあるんだか分からない小さなシャッターに申し訳程度の落書きがされていた。落書きはアンダーパスを車が通るたびにライトで照らされてホワイトアウトした。

 アンダーパスを抜けると近所の神社があった。社務所が倉庫みたいになってる風情も何もないところだったが、階段だけは立派な石段が作られていた。祭りの時にはここを夜店の明かりが照らしていただろうか。

 肩を叩かれて振り向く。そこには学校があった。その学校の門の横にその喫茶店は建っていた。使い古した「OPEN」の看板を出して。こんなお店には誰も入ろうとしない。お店はいつもガラガラだった。それはもう、廃墟みたいなものだった。

「どういうつもりだよ」

 先輩の前に走りこんで睨みつける。夢の中でぐらい夢物語を見せてくれたっていいじゃないか。現実じゃない綺麗な世界を見せてくれたっていいじゃないか。それなのになんで。なんでこんなことを! こんな騙すようなことを!

 怒りで震えている自分を前に、先輩は穏やかに笑った。何笑ってんだよ。先輩もあいつらと同じなのかよ。クラスのヤツらや教師たちと同じなのかよ!

 先輩はそんな自分を見て、一度目を瞑ると、息を少し吐いて言った。

「おはよう」

「……」

 先輩は笑った。はず。なのに。

「おはよう」

 先輩の姿が消えていく。周りの景色も溶けていく。その中で、先輩の言葉だけが頭に残る。

 心の中に燻ぶっていた怒りは、寂しさへと変わった。


 遮光カーテンから漏れる日光と、外から漏れ聞こえてくる鳥の鳴き声などの雑音。

「なつきー、ご飯できたよー」

 階下から聞こえる母親のやかましい声。何もかもが嫌いな日常。

 そんな中で、一人、じっと天井を見つめた。目を見開いて、何もない天井を見つめた。

「先輩。おはよう」

 それに誰も返事をしない。当たり前だ。当たり前なんだ。馬鹿らしくなって、自分のことを鼻で笑った。

 やっぱり朝は嫌いだ。

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大嫌いな朝 前花しずく @shizuku_maehana

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