はじめましての距離 〜糸枝町通り商店街にて〜

野森ちえこ

弟子いり志願

 それは桜の花が散り、藤の花が見ごろを迎えようとしている、ある春の昼さがりのことだった。


「は、はじめまして! ワ、ワタクシ、捨内すてない 恭志きょうじと申します!」


 焦待じれたい県もどか市にある、全長二百メートルほどの糸枝町いとしまち通り商店街。

 半分以上の店が閉店している、いわゆるシャッター通りであるが、そのまま住居として暮らしている人間も多い。

 そんな通りの中央付近にある『喫茶ミモリ』から出てきたひと組の若い男女に向かって、青年は声をはりあげた。十メートルほど向こうから。


「ほ、本日はお日柄もよく! 薄井うすい とも先生におかれましては、ますますご健勝のことと存じます!」


 捨内 恭志と名のった青年は、店から出てきた男性が薄井 友であると認識した瞬間、ものすごい勢いで十メートルの距離をとったのである。


「……遠くない?」

「遠いね」


 ぼそっと疑問を口にした薄井 友に応じたのは、瀬和見せわみ 瑠子るこである。マネージャーのような、世話係のような役まわりの女性だ。

 ふたりは恋人同士ではなかったが、互いに『ミル』『スイ』と、独特のあだ名で呼びあっている。


「あのー、お話があるなら、もうすこし近くで話しませんかー?」


 なんとなくこちらから近づいてはいけないような気がして、瀬和見 瑠子ことミルは口に両手をそえて提案してみた。


「め、めめめ、滅相もない! 先生のオーラがまぶしすぎて、これ以上近づくなんて、そんな! おそれ多い!」


 ミルは思った。それは幻覚だ。


「目、大丈夫? 眼科行く?」


 実際にそうたずねたのは薄井 友ことスイ本人である。謙遜ではない。自虐でもない。わりと本気で心配している。

 稀代の天才画家といわれ、世界的にその名を知られるようになってひさしいが、生身の彼は非常に影が薄い。

 飲食店などで注文を忘れられるのはお約束。そもそも注文をとってもらえないことすらある。

 そんな彼にとって、たった今出てきた『喫茶ミモリ』は唯一まともに対応してくれる貴重な店だった。高校時代からの友人、見守みもりしのぶが両親から引き継いだ店なのだ。


 なんにせよ、いるのかいないのかわからない。とは散々いわれてきたスイであるが、オーラがまぶしいなんて、生まれてこのかた夢のなかでもいわれたことがない。目か頭がどうかしているのではないかと、心配にもなろうというものだ。


「だっ、だだいじ、だいジョウブであります! ゼッコウチョウです!」


 ちょっとめんどくさそうな人だな。と思ったミルは、とりあえずこのまま話を進めることにした。


「ご用件はー?」


 シャキーン! という効果音が聞こえてきそうなキレのよさで姿勢を正した捨内 恭志は、よりいっそう声をはりあげた。


「わ、ワタ、ワタクシ、捨内 恭志! 薄井先生の弟子にしていただきたく! 本日はお願いにあがりました!」

「でし……」

「デシ……?」


 ミルは『やっぱり面倒な人だった』と思い、スイは、これまで聞いたことがない、異国の言葉を耳にしたような気分になった。

 そして、デシが弟子に変換されるまで、しばしの時間を要した。


「弟子って、なにするの?」

「なんでもします!」


 こちらは即答である。


「荷物持ちでもモーニングコールでも掃除でも洗濯でも!」

「ふーん。おれは? なにするの」

「なんにも! た、ただ、ワタクシがおそばにいることを、せ、先生のアトリエに立ちいることを、お許しくだされば! それで!」


 ――そういえばこの人、一度も聞き返してないな。


 ミルはおかしなところで感心していた。


 ぽそっと、ぽつっと、体温低そうなスイのトーンはいつもと変わらないのに、スムーズに会話が成立している。

 この弟子いり志願者。よほど耳がいいのか、それともなにか特殊なセンサーでもそなわっているのか。


「いいよ」

「えっ」

「えっ」


 はからずも、ミルと捨内 恭志の声が重なった。


「え、え、よ、よよよよ、よろ、よろしいのですか! ほ、ほん、ほんとうに!」

「うん」


 スイはコンテストに出品するのもめんどくさいという男である。とにかく絵を描くことにしか興味がない。

 大学で出会った同期のミルが、この才能を埋もれさせてなるものか――と、鼻息も荒く出品手続きの代行をしたくらいだ。

 以来、ずっと近くで彼を見てきたからこそ、彼女はかなり驚いていた。まさかOKするとは。


「だってなんか、断るほうがめんどくさそう」


 彼女の心の声が聞こえたわけでもあるまいが、スイはやはりぽそっとそうつぶやいた。


 なるほど。そういうことか。

 ミルはおおいに納得した。

 そして、スイはほんのすこしだけいつもより声をおおきくした。


「そのかわり、先生って呼ぶのやめて。あと、この距離、なんとかして。疲れる」


 捨内 恭志の身体は感動と興奮に震えた。たまたま目にした一枚の絵画。その世界に心を奪われ、あまりの衝撃に一時は筆を折ろうかと思ったくらいだ。けれど、あんな世界が自分にも描けたら――とも思った。そしてその一心で、情報を集めに集め、ようやく今日、ここにたどりついたのである。

 なんという僥倖。許可が出るまで、何度でも何日でもかよう覚悟をしていたのだが。

 とにもかくにも弟子の初仕事である。

 捨内 恭志はカッと目に力をいれると、やはりシャキーン! と姿勢を正した。

 しかし困った。先生と呼ぶなとは。いったいなんとお呼びすればいいのか。すぐには答えがみつかりそうにない。

 しかたがないので、彼はもうひとつのミッションに集中することにした。

 こちらも難題であるが、思いきって足を踏みだす。先生をがっかりさせるわけにはいかない。

 キビキビと、いさましく進む。進んでいるつもりである。実際は、おっかなびっくりのへっぴり腰であったが。

 それでも一メートル二メートルと近づくうち、捨内 恭志はふとひらめいた。


「では、師匠!」

「……却下」

「そんな!」


 これしかないと思ったのに。あっさりと却下されてしまった。しかし捨内 恭志はあきらめない。ほかになにかないか。なにか。

 画伯。画仙。画聖。

 師範。マスター。巨匠。

 こうしてみるとけっこうあるな――と思ったのもつかのま。


 捨内 恭志が口にした敬称を、スイはことごとく却下していった。

 ふつうに名前で呼んでほしいスイである。

 けれど捨内 恭志は、そんなおそれ多いことはできないと苦悩する。


 面倒になってきたスイは、ふあぁとあくびをして、くるりとうしろを向いた。すると、いつからいたのか、そこには『喫茶ミモリ』の若きオーナー、見守 忍の姿があった。店先でこれだけ騒がれれば、それは気にもなるだろう。


「トモ。二階、つかうか?」

「いいの?」

「ああ。なんか注目のマトになってるし」


 シャッター通りとはいえ、営業しているのは『喫茶ミモリ』だけではない。ほかにも営業している店はあるし、住人もいる。いつのまにやら、いくつもの目がこの珍騒動に集まっていた。

 よくいえば平和。悪くいえば退屈。そんなシャッター通りに暮らす人々は興味しんしんである。

 だから見守 忍は、話しあうなら二階をつかうか? という意味でたずねたのだが、スイは二階を昼寝につかっていいのだと受けとった。


「じゃあ、借りる。ありがと」


 もう半分眠ったような声でいいながら、スイは出てきたばかりの『喫茶ミモリ』のなかにふらふらと戻っていった。


 スイが相手だと、この程度のすれちがいは日常茶飯事である。

 見守 忍もすぐに気がついたのだが『まあ、トモだからな』と、あっさり納得し、最初から両者の意図を正確にくみとっていたミルもいちいち指摘などしない。

 比較的おおらかな人間が集まっているのか、それともスイとかかわったことで人間がおおらかになるのか。とにかく、薄井 友という男のまわりには、よくも悪くものんびりした人間が多かった。


 やれやれ――と、見守 忍とミルはなんとなしに顔を見あわせて、それから捨内 恭志を振り返った。

 注目を集めた張本人だというのに、すっかりかやの外である。

 ミルとしては、このままお引きとり願いたいところなのだが、弟子いりの話が本気なのだとしたら、そうもいっていられない。今のうちに、身元とか、どうやってここにたどりついたのかとか、いろいろ確認しておいたほうがいいだろう。


「ええと、捨内さんでしたか。とりあえず、なかでコーヒーでもいかがですか」


 ミルとおなじことを考えていた見守 忍が無難に誘う。


 いまいち状況を把握できず、途方に暮れていた捨内 恭志は、地獄で仏に出会ったような気分でとびついた。まさか、ふたりによる尋問が待っているとは想像もしていない。


 はたして捨内 恭志の弟子いりは叶うのか。

 さらに、彼があらわれたことで、スイたちになにが起こるのか、あるいは起こらないのか。

 それはまた、べつの話である。


 ちなみに、この日捨内 恭志が見せた、はじめましての距離は、やがて伝説――にはならなかったものの、平和で退屈なシャッター通り商店街の語りぐさにはなったのである。



     (おしまい)


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はじめましての距離 〜糸枝町通り商店街にて〜 野森ちえこ @nono_chie

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