第8話

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 土の上に座りながら、僕は茫然と何かを考えていた。

 まず初めに思ったのは、あれは奈月ではなかったのではないかという可能性だ。それでもやはりあの見た目と喋り方は僕の記憶に住む奈月に相違ないし、なにより一度来たことのある人間でなければ、この場所は知らないはずだった。馬鹿みたいだ。現実逃避にしても無理がある。

 そして、次第に僕は妙な自分の気持ちに気づいた。僕は絶望していた。しかし同時に、ある種の喜びも感じていたのだ。この複雑な深層構造を考え始めるより先に、幽霊さんが口を開いた。

「キミ、なんで能力を使わなかったの?」

「え? なんでって……」

「だって、ようやく見つけた幼馴染なんでしょ? このチャンスを逃したら二度と会えないかもしれないんだよ」

 なぜか幽霊さんは怒っているようだった。

「でも、他に人がいたんじゃ……」

 はぁ、とわざとらしくため息をつかれた。嘲けるような目が向けられ、心が軽く抉られる気分になる。

「あのさぁ、キミはいつもそうじゃん」

「えっと……幽霊さん……?」

 一転して雰囲気の変わった幽霊さんに戸惑い、僕は恐る恐る目を合わせた。

「結局さ、キミは自分の人生を生きてないの。この世界の誰かが歩んでいそうな理想的な人生を、あたかも自分の人生みたいに考えて生きてるんだよ。自分の人生じゃないからいつでも逃げられるし、修正できる。でもやっぱり、自分の人生じゃないからいつまでも満たされないって嘆いてるんだよ。『自分は関係ない』みたいな顔してるくせに理解者ぶって、傍観してるの。本当に、幽霊みたいに」

「いや、そんなこと……」

 矢継ぎ早に紡がれる幽霊さんの言葉は、返答の隙すら許さなかった。

「心の中では、自分の幼馴染は自分なしじゃ生きていけないって信じてたんでしょ。でも冷静に考えてみてよ。想いを伝えようともしないで、連絡も取らないで。そんな男に、いつまでも心を奪われてるわけないでしょ。キミはただズルいだけだよ。卑怯者だよ。自分の記憶を美化するために勝手に人を使って気持ちよくなって」

「うっ……」

 これ以上ない程、図星だった。いや、図星というよりは、今まで故意に考えてこなかったことを他人に詳らかに解説されているような気分だった。自分の中の欠点や羞恥を机の上に並べられて、一つ一つ説明されるような。

「後で傷つくために現実を殺すなんて現実逃避より最低だよ。そのくせ、いざ手が差し伸べられたらそれも取らないんでしょ? 気付いてる? 私、キミのことを好きになっちゃってるんだよ」

 言い終わると、幽霊さんの頬に液体が伝った。やがてそれは顎のあたりで渋滞を起こし、地面に落ちた。地面は濡れなかった。

 握り拳に力が入った。鼻の奥がツンとして、顔をまともに見れなかった。

「ごめんなさい。確かに、僕が幽霊さんに惹かれていたのは事実です。奈月に対する未練を捨てて、幽霊さんの差し伸べる手を取れば成仏できるのも事実なんです。だけど、それでも僕は捨てきれません。この未練は僕そのものみたいなものなんです。持っていて幸せにはなれないけれど、これがないとダメなんです。だって、僕は一縷にも満たないこの感情に縋って、今まで生きてきたんです。生きてこられたんです」

 そう言うと、幽霊さんがようやく笑った。それは呆れや諦念にも似た笑いだったが、それだけで僕は救われたような心持ちになった。

「……そういう捻くれて、拗らせたところもいいなって思っちゃったんだから難儀だよね。でも、ありがとう。キミに出会えてよかったと、私は思ってるよ。幽霊になってから、毎日がずっと透明だった。誰かと一緒にいて楽しいって、久々に思えたよ」

 気付けば、幽霊さんの体がぼんやりと光り始めていた。

「もしかして、これって……」

「覚えてる? 私の未練。誰かと、両思いになること」

 そう言ってはにかんだ幽霊さんは、今までで一番美しかった。

 僕だってとっくに分かっていたのかもしれない。それでも必死に鈍感なふりをしたのは、未練を達成すれば消えてしまう幽霊さんが惜しくて、大切だったからだ。

「キミが好きだよ。本気でキミの成仏を手伝おうと思ってた。でもごめんね、先にお迎えが来ちゃった」

「こちらこそ、ごめんなさい」

 涙ぐむその表情を、僕は直視できなかった。

 徐々に幽霊さんの身体は上昇していく。まるで月光に吸い込まれるみたいだ。僕はそれを下から見上げながら、幽霊さんに言われたことを思い出していた。そして、事態が最悪の方向に向かっていることを直感していた。

 あろうことか、僕は幽霊さんとの記憶までもを、感傷に浸る材料としようとしていた。もう後戻りはできない。感傷怪物の完成だ。


 だんだんと昇っていく幽霊さんはやがて光の粒となって瑠璃色の夜空に消えた。あの光の美しさに比べたら、花火のちっぽけさが可笑しくなってくる。遠くの星が瞬いた。


 一人になり、まだ明るい街を見下ろした。帰りの支度を始める客は、皆楽しそうに夏の終わりを享受していた。


 僕だけが未だに、夏に、思い出に、奈月に、幽霊さんに囚われている。

 未練を捨てれば成仏できる。思い出に縛られて苦しむこともなくなる。天界は幸福で溢れているのかもしれない。

 それでも僕は傷つくことをやめない。やめられない。

 幸せにならない。幸せになれない。

 このまま一生成仏できなくてもいいと思ってしまう僕がいる。

 それが夏のせいだというのなら、きっとそうなのだろう。そういうことにしておきたかった。





 了

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僕は幸せにならない 佐薙概念 @kimikoto

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