四 -1-

 ようやく辿りついた真殿の惨状は筆舌に尽くし難い。

 扉を開け始めた時から漂い始めた強烈な腐臭と獣臭さは、血と糞尿の匂いが入り混じり、それだけで近寄ることが躊躇われる程だ。

 そう広くもない部屋の中に撒き散らされた、腐った獣の血と肉は足の踏み場も無いほどで、天井や壁にまで飛び散っている。

 部屋の中央にはここで犬を屠殺したような跡が見受けられ、おそらくこの世ならざるものを受け入れるはじめの術もここで行ったのだろう。

 黒々とした血溜まりの中で何かの内蔵らしきものが浮いている様は、直視することすら忌避したくなる。

「ここまで酷いとは……」

 口元を抑えながら、謙介が呻くように言葉を漏らした。

 出来ることならこのまま踵を返して逃げてしまいたいところなのだろうが、そもそも屋敷から出られない状況ではそうもいかない。謙介は廊下でおれを背から下ろすと、持ってきた風呂敷包みを開く。

 穢を清める、と言うと分かりにくいが、基本は掃除だ。とにかくこの惨状を片付けなければ何も始まらない。

 今は屋敷から出られないので、この腐肉達を外で焼却することは出来ないが、ひとまずゴミ袋に詰めていけば一旦の清掃は出来るだろう。

 謙介は溜息を漏らしながら鼻と口元を布で覆い、何枚ものゴミ袋を握りしめながら意を決して真殿の中へと入っていった。

 それからしばらく、謙介の必死の清掃作業が続いた。腐肉か毛皮か骨か糞かは分からないがとにかく個体になっているもを集め、ゴミ袋に詰める。

 一通り個体物を収集し終えた後は幾度も絞りながら雑巾で拭い、汚水は厠で流す。

 そうした作業をしている最中にも幾度となくこの世ならざるものの襲撃はあったのだが、人が半ば自棄になって無心で作業しているときというのは奴らも近づきにくいのだろうか。対処は割と楽なものであった。

 どれくらいの時間が経ったか、時計すら機能していない中での感覚の把握は難しいが、ゆうに十時間はかかったのではないだろうか。

 おれの体は、どうやら発熱してきているようだ。全身がひどく熱いようでいて、震える程の寒気がする。

 しかしその間、腹も空かなければ厠へ行こうという気にもならないので、この空間の生命的な時は止まっているのだろうと思う。

 構造上出入り口の少ない部屋なのでなかなか匂いが消えないが、しかしそうして作業を続けていけば、次第に真殿が元の姿を取り戻していった。

 それと引き換えのように謙介は汚れに塗れてどろどろになっていくが、清掃を終えると最後に、着ていたシャツとズボンも脱ぎ去る。それをどこか憎しみが籠もっているかのようにゴミ袋へと投げ入れて詰め、一先ず汚物の入った袋は全て厠へと持っていった。

 それから、風呂敷に入れて持ってきていたおれの着物に着替える。その真白の着物は、おれがいつも口伝術を受ける時に身に着けていたものだ。

 前に別の名を体に与える術をした時も着物を着せたが、あの時謙介は着物を着るのは初めてだと言っていた。今も帯の締め方で苦戦していたので、手を貸して結んでやった。

 体格の良い彼には着物姿がよく似合う。清潔なものを身につけると少し気持ちが落ち着いたのか、ほっとしたような表情を浮かべている。

 疲れ切った様子だが、不満を漏らすことはない。全く、何とも優秀な臣だ。謙介は襟元を整えると、おれの方を一瞥した。

「笑うなよ」

 そう釘を刺されるが、もとより笑うつもりなど毛頭ない。

 謙介は片手に塩を握りながら、もう片方の手におれのつくったメモを持ち、再び真殿の中へと入っていく。

「と ほ かみ えみ ため」

 握った塩を部屋の四方に撒き、メモに書かれた文字をたどたどしい声で読み上げる。あれは、唱える中では非常に簡単で、そして強力な清め祓うための呪である。

 おれの声がでないので、祓いの式を代わりに謙介にやってもらうことにしたのだ。

「と ほ かみ えみ ため」

 ひとつ唱えるごとに塩を撒き、部屋の中で場所を移動していく。

「と ほ かみ えみ ため」

 そうして繰り返していくと徐々に自信が出てきたのか、呪の声が次第に大きく、はっきりとしたものになっていく。

「と ほ かみ えみ ため」

 廊下の壁に、熱い体を預けたままその声を聞き、おれは謙介の声に、次第に力が籠もっていくのを感じていた。

 声量が大きくなるという意味ではなく、それが呪としての効果を持った音になっている実感だ。

「と ほ かみ えみ ため」

 成った。

 そう感じた瞬間、閉じきった屋敷の中、起こるはずもない清涼な風がどこからともなく吹き抜けた。

 心地よい風だ。ようやく胸いっぱいに息を吸えるような新鮮な空気。

 傷んだ喉でさえ心ゆくまで感じたくなって、それを味わうように目を閉じ、息を吸い込んでから再び目を開いた時、すでに変化は起こっていた。

 おれの目の前、真殿前の廊下に薄紫が立っていた。

 気がつけば、屋敷の外からの鳥や虫の鳴き声が微かに聞こえてくる。

「薄紫さん」

 謙介も気づいたようで、喜びの声をあげている。

 だが、薄紫は話し出す様子はない。おそらくまだ穢が抜けたばかりで力が戻りきっていないのだろう。ただいつものように、どこまでも温かい微笑みを浮かべている。その、見るものを皆安心させるような笑顔は、紛れもなく彼女が戻ってきた証だった。

「良かった……」

 謙介が真殿の中へたり込む。

 その様子におれもほっとしたような心持ちがするが、しかし、胸の奥の考えがいつまでも燻り続けている。

「白」

 謙介に呼ばれ、視線を向ける。

 その言わんとすることを察して、おれは頷き、ノートに文字を記していく。

《犯人を捕まえましょう》

 蛟を暴走させ、おれの力を弱めて屋敷に穢を持ち込み、かつ次元の境さえも破壊しようとした犯人。その正体に、おれは思い当たるところがあった。

 さらにその犯人は、今なおこの屋敷の中に潜んでいる。

 何故なら犯人が穢をこの屋敷に持ち込んだ時、薄紫が抵抗のために屋敷から何人たりとも出られないようにした。であるならば、その当人でさえ出られなくなっているはずだ。

 おれが薄紫へと視線を向けると、彼女はその意図を察したようにゆっくりと腕を上げる。

 真っ直ぐに伸ばされた指先は、真殿のさらに奥を指し示した。

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