三 -2-
先程の呼びかけは後ろから聞こえてきていたが、今度はその音の指向性が分からない。背後から聞こえてくるようでもあるし、前からも、左右からも。
笑い声のような、何かの掛け声でもあるような奇妙なその声は低く、高く、上下を繰り返している。
まるで自分を取り巻くようにあちこちに人がいて、それぞれがそれぞれの場所で声を上げているようだ。
「ほっ、ほっ、ほ、ほっ、ほ、ほ」
謙介は、今度は足を止めることすらしなかった。先程よりも心持ち早くなった足取りで、ただ一目散に廊下を進み真殿を目指す。
と、謙介とおれが通った所を追うように廊下の左右に並ぶ障子が次々と開いていく。
「ほ、ほっ、ほ、ほ、ほっ、ほっ」
障子の開いた部屋の中、壁を貫通しながら異形が追いかけてきていた。
黒ずんだ人の影のようなそれは、同じように黒い影を背負っている。どうやらあの声は、ものを背負いながら歩くときの掛け声のようだ。
それを把握した瞬間、おれはゾッとした。あれは、「真似るもの」だ。謙介に伝えようと肩を叩こうとした時には、すでに入れ替わっていた。
おれを背負っているのは、全体を細かい煤で覆われたような黒い影。そして視線を横へ向ければ、黒い何かを背負ったまま、こちらに気づかずに廊下を歩く謙介の姿がある。
「ほっ、ほっ、ほ、ほ、ほっ」
自分を背負う異形が、一歩ごとにそう奇妙な声をあげ続けている。
「……ッ!」
喉に焼け付くような痛みを感じながら必死に声を上げようと息を漏らし、足と腕を動かして暴れる。だが、体を帯で締められているのはそのままで、何の抵抗も出来ない。
真似るものは、その呼び名の通りに対象を真似る。真似の行為が重なった時、対象の大切なものと異形を入れ替えてしまう。
この世のものを連れ去り、かつ異形をこの世に紛れ込ませる非常に厄介な存在。このままでは、謙介が気づくことなくおれは次元の向こうへ運ばれてしまう。
おれは奥歯を噛み締め、激しい頭痛を感じながら念じる。
いつもは術を使っているが、この程度ならば呪を介さずとも発動できる。
式神だ。
何かに気づいたように謙介がこちらを向き、一瞬視線が合った。
「白!」
謙介の目が見開かれた瞬間、襖が閉じる。
「白、白!」
その向こうで、謙介が襖を揺らしているのを感じるが、それはビクともせずに閉め切られたまま。
体の力が抜けていく。両の足先から、ひどく冷たい、ジェルのような何かに浸されていくような感覚がした。これが、次元の境を超える時の感触だろうか。
瞬間、襖の向こうから醜い叫び声が上がり、おれを抱えていた存在が掻き消えた。そのまま重力に従ってどさりと畳の上へと落ちる。
襖が開き、転がり込むようにして謙介が入ってくる。襖の向こうの廊下には塩が散らばっているのが見えた。恐らく、向こうで謙介が自分の背負っていた異形に塩を撒いたのだろう。
「白、大丈夫か」
この屋敷で会った時のように再び抱き起こされて、思わず笑う。
もし言葉が発せられたら、スマホよりも便利でしょう、なんて言ってやるのに。
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