四 -2-
真殿奥、格子状になっている壁の向こうには、もう一つの部屋がある。伝えの間と呼んでいるそこ。
照明がなく暗い室内の様子は真殿から伺い知ることは出来ず、中に誰がいようと此方側からは分からない。
伝えの間に入ることが許されるのは、口伝術を行う口伝師だけである。
千年以上にわたるおれの歴史は、百人以上の口伝師によって分担し記憶されて今に伝わっている。しかし、各々の口伝師はお互いの顔も氏名も知らなければ、おれもどのような者が口伝師であるかを把握していない。
それは、全ての世の理を把握する者をおれ以外に生み、悪用する者が出ないようにするための策である。
だが、いくら分散したとはいえ、口伝師はおれの記憶の一部を持っている。
おれが気を緩める日を把握し、蛟を暴走させる策を知り、薄紫の力を奪い、それによってこの世の境に穴を開ける方法を把握している者など、口伝師以外にいない。
さらに伝えの間には、直接外から入り込める専用の出入り通路がある。薄紫が屋敷に侵入されるまで気づかなかったのも、そこを利用されたからだろう。
おれが壁に縋りながら立ち上がったのを見て、謙介が近寄ってくると体を支えられる。
「白、熱が……」
おれの体に触れ、謙介も発熱に気づいたようだ。しかしおれはそのまま、真殿の奥へと進む。謙介も止めはしなかった。
はめ込まれた格子の一部を持ち上げ、引き上げるとそこに人一人が這って出入りできるだけの小さな穴が開く。
四つ這いになって中へ入ると、後から謙介が続いてきた。
伝えの間の中は本当に暗く、真殿の方は見えるが内側は完全な闇に沈んでいる。伝えの間に人の姿はなかったが、おれはその床に開いた地下への入り口に気づいた。普段は上を蓋で閉じ、さらに座布団が敷かれているであろうその場所。
「白、大丈夫か」
そう気遣われながらも頷いて、一歩一歩、手をつきながらその穴にかかった階段を下っていく。
地下空間には、蝋燭の炎が灯っていた。その地下の様子を一言で言い表すのならば、手術室のようである。部屋の中央、古めいたビニル張りのベッドの上に、一人の女が座っていた。
後ろで一つに括ってはいるが、乱れた髪に白髪が混ざっている。その様子からは年の頃は五十歳程だろうかと伺えた。彼女の両手、そして体は、赤黒く汚れきっている。
女はおれの姿を見留めると、すぅっと目を細めた。その眼差しがあまりにも冷たくて、おれは瞬間、息が詰まった。
「あー、あ……絶対に上手くいくと思ったのに」
女は嗄れた、しかし妙に大きな声でそう言い放つ。
おれの後をついてきた謙介も彼女の存在を認識したようで、体が強張っている。
「あなたが……」
謙介がそう問いかけようとした瞬間。
女の声が張り上げられた。
「分かんないんだよなぁ! あたしのことなんてさあ! 神代のため、神代のためって、人から全部奪っていって、あたしの、赤ちゃん! どこやったんだよ!」
その悲鳴めいた言葉を聞いた瞬間、おれはここが一体どういう場所であるかを把握した。
ここは、分娩室だ。白を産ませ、そのまま母子を引き離すための場所。意識がある時は一度も入ったことがないが、今までの何代もの白が、ここで生まれている。
「神代になるって聞いたんだ。誉高いことだって、だから許したのに、たった八歳で死んだだなんて……あたしの赤ちゃんはな、お前に殺されたんだ。全部お前がやりはじめたことなんだよ」
女の涙はとうに枯れたのか、その目に光はない。しかし、おれには彼女が泣いていることがわかった。
彼女はきっと、先代の白の母だ。まさか口伝師から子供をとったとは思ってもみなかった。連続した白の早逝に、他に変えがなかったのだろう。
「白は何もしてないだろうが。白が悪いわけじゃない」
謙介は反射的にそう言葉を返す。彼がどこまで事態を把握しているか分からないが、言わずにおれなかったのだろう。
だが、その言葉をきっかけにしてけたたましく女が笑い始めた。
「そいつが神代だよ、全部そいつのせいに決まってるんだよ」
そうか。
彼女は復讐がしたかったのだ。
次元の境に穴をあけるだけなら、ただおれが居ない時にやればよかっただけの話だ。おれがこの世に戻ってすぐに起こった一連の流れは、的確におれを狙っている。
おれが白から神代になるまで、彼女は口伝師としての任を全うしながら待っていたのだろう。十六年経っても消えぬ怨念。それがいったいどれ程の悲しみから生まれ出たものであるか、想像に余りある。
「だからあたしが終わらせてやろうと思ったのになあ」
立ち上がった彼女の手には、いつの間にか鋏が握られていた。
銀の刃に蝋燭の灯が揺れる。彼女の動きに、謙介がおれを庇うように身構えた瞬間。
止める間もなかった。
彼女の握った鋏は振り上げられ、そのまま深々と彼女の腹部に突き立てられていた。まるでそこに繋がる、赤子との臍の緒を断ち切るように。
尋常ならざる力で腹部を切り裂き、その中身を溢れさせていく。鮮やかな赤。
聞こえた悲鳴は、彼女のものか、それとも謙介のものだったのか。地下に反響する声は、そのどちらも含んだものだったのかもしれない。
ただおれには、彼女が最後の足掻きでおれを襲わなかった理由が理解できた。
おれが死んだら、新しい白がつくられるだけだ。
彼女の復讐は、この世の次元の境を破壊し、それを守る必要もなくさせることで完成するものだったのだろう。
そこに母としての愛情さえも感じて、只々、やりきれない。
立ち尽くし動けない謙介を残し、おれは床を這うように移動した。
倒れ込んだ彼女の回りには、その腹部から溢れた血に濡れている。その血の中、腕を伸ばして。事切れてなお、彼女のまだ温かい体を抱きしめる。
そうするしか、できなかった。
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