第1話 全裸の女「あなたは悪役令嬢です。」


 ――あなたは悪役令嬢です。


 誰かに、そう告げられた。

 その記憶を最後に、意識がゆっくりと覚醒していく。


 まぶたを開けば、そこはいつもの寝台だった。清潔な寝具に埋もれるように、ヴァイオレットは一人眠っている。

 視線を上げれば、春を告げるあたたかな日差しが、大きな窓からあふれんばかりに差していた。小鳥のさえずりとともに、水差しから注がれる水音が、ヴァイオレットの耳をくすぐる。


 朝、だった。いつも通りの朝である。

 全裸の女に謂れのない中傷を受けるという、夢見の悪さも含めて。


 美しい顔を盛大に顰めて、ヴァイオレットはため息をついた。菫色の自慢の髪が乱れたままなのも承知で、しばしの間、言葉もなく呆けている。

 このところ、連日連夜で類似する夢を見続けていた。少なくとも「またあの夢か」と忌々しく思うほどには、夢見の悪い日が続いている。まるで、体から魔法力がごっそり奪われるかのごとき疲労感――と例えたところで、側付きの侍女に伝わることはないのだろう。これだから才なき者は使えないのだ。


「お、おはようございます、お嬢様!」

 グラスを携えた侍女が側に寄るのを横目に、ヴァイオレットは緩慢な動作で身を起こした。凍りついた笑みでグラスを差し出す侍女を見やり、震える手を押しのける。さほどの力も込めていないのに身を引いたのは、主人の不機嫌を見て取ってのことだろう。

「いらないわ。邪魔だから下がって。それから、いつもの召使いを呼んできてちょうだい。着替えるわ。あなたじゃお話にならないの」


 ヴァイオレットは不機嫌を隠さない。侍女が何やら萎れて退出していくが、気にも留めなかった。そんなことよりも、感じている気だるさのほうが問題である。睡眠の質が悪いせいで、疲れが取れていない。

 ベッドサイドに用意された瑞々しいスイートチェリーで口を潤し、ヴァイオレットは爪を噛んだ。


 ――まったく、あの事故以来、ろくなことがないわね。


 思い出すのは、先日遭遇した衝突事故だった。

 忘れもしない、十日前のことである。……いや。七日前だっただろうか。


 婚約者との逢瀬の帰りだった。御者の手落ちで引き起こされた、不運な事故である。

 森を抜ける際、二頭の馬たちが揃って茂みへと突進し、そのまま御し損ねて、ヴァイオレットの乗車する馬車は横転した。木が折れるわ、御者は失禁するわ、馬車も大破するわの大惨事で、おまけに馬が一頭行方不明になったままである。その事故で、ヴァイオレットは頭をひどく打ちつけ、気を失った。

 それ以来である。

 不快な夢に煩わされるようになったのは。


 幸にして外傷はなく、ヴァイオレットは屋敷へ担ぎこまれて早々に、意識を取り戻した。その際、冒頭の妄言を、初めて夢に見たのである。


 ――あなたは悪役令嬢です。


 もちろん、ヴァイオレットはすぐに忘れた。

 そんなことよりも、自室で意識を取り戻したことにまず驚いて――それから、烈火のごとく怒りを爆発させた。


 恐れ多くもヴァーノン公爵家の令嬢たるヴァイオレットを送り届けている最中でありながら、こうもやすやすと危険にさらすなど、もはや信じがたい無礼である。たかが平民上がりの御者風情が、公爵家に仕える栄誉も忘れてこの体たらく、万死に値すると言っても過言ではない。女神の厚い加護により、ヴァイオレット自身がかすり傷一つ負わなかったとて、それとこれとはまったく別の話であり、今すぐ父なり兄なりに言いつけて、御者の首を刎ね飛ばさなければ気がすまない、と。


 本気か否かはさておくにせよ、ヴァイオレットはそれはもう語気荒く捲し立てた。実際にそれがヴァーノン公の耳に入っていたならば、御者の胴体は今ごろ首とお別れしていた可能性が、無きにしも非ずである。

 が、そこはそれ。陰で公爵閣下の倍はキレると名高い補佐官筆頭兼執事バトラーが、大事になる前にと、一切合切ことを収めてしまったあとだった。


 御者は言い分も聞かずの即時解雇。すでに邸宅からもつまみ出され、領内からの即日退去まで言い渡される徹底ぶりである。大破した馬車は廃棄扱い、より上等の馬車を王都の職人へ発注済とのこと。


 代わりの馬は厩におりますし、御者の代わりなどいくらでも。尊いお嬢様が気にかけることさえ、もったいないことでございます。万事我らにお任せいただき、養生ください。うんぬんかんぬん。


 これぞ一流の執事である。公爵令嬢の怒りを涼しい顔で受けとめてからの、流れるようなフォロー&アフターケア。おおよそ満足に値する対応に、ヴァイオレットの怒りも自然と鎮火するはずだった。

 そもそも彼女は、下々の処遇自体には、さほどの興味はないのである。腹がたったから喚き散らした、程度のわがままに過ぎない。

 なので、後日見舞いの品として、婚約者からの見事な花束が届けられた折には十分に機嫌を直していたし、なんなら満足極まって全てを忘れ去ってしまう――


 ――訳がない。


 婚約者にも執事にも、不満は一切なかった。

 が、しかしである。

 眠るたびに定型文のごとき中傷をしてくる女。夜毎となれば、それは不快の骨頂だった。最初は気にも留めなかったとはいえ、連日続けば耐え難いし、頭から離れようはずもない。


 最初は声だけだったように思う。ふわふわと漂う夢特有の曖昧さの中、美しい声だけがこだましていた。上等の鈴でも転がすような、耳触りの良い女の声。それは日増しに明瞭となり、同時に視界は少しずつ開けていく。

 暗闇に明かりが生まれた。灯る光は月光のようなやわらかさから、陽だまりの明るさを経て、後光のように強く人影を映していく。闇から影が、影から朧げな白い姿が、霞む姿から子細な造形が、わかってきて――


 今朝がた、ついに全容に至るまで像を結んだ。


 全裸だった。歳のころは十四、五歳だろうか。珍しいチャコールグレイの大きな瞳が、少女と呼んでも差し支えないほど幼げで、反してその存在感と体型は、かなり大人びて見える。ブルネットの長い髪が、まるで水中であるかのように揺らめいて、どこか魔法の存在を想起させた。


 ヴァイオレット自身は、最初から夢のどこにも存在しない。反論はおろか、視点を動かすことさえ許されない傍観者である。繰り返される台詞に変わりはなく、姿形だけを少しずつ明かしていく回りくどさに、辟易していた。

 だから、初めてその姿を目にした瞬間、思わず口をついて出たのである。


「服を着なさい、この無礼者ッ!」


 想像していたより、別方向に無礼だった。 

 ヴァーノン公爵家の愛娘をつかまえて「悪役令嬢」も無礼甚だしいが、毎晩全裸で物言いをつけていたとは、もはや無礼者を超越した何かである。闇に浮かぶ白い影が、よもやそのまま素肌の色だなんて思わない。男だったら大珍事だ。いや、女でも立派に事案である。


 不思議なことに、昨夜は声が音になった。前夜までは、できなかったことである。

 夢の中で、ことさらはっきりとヴァイオレットの声が響いた。を耳にしたであろう少女が、に気づく。気づかれたことに、ヴァイオレットも気がついた。――いつもと同じようで、少しだけ異なる夢の始まり。


 けれど、それもまたいつも通りなのだ。

 わずかに安堵を見せた少女が口にしたのは、変わらぬ腹立たしい台詞。

 あなたは――


「お嬢様、失礼いたします」

 ノックの音に続く侍女の声で、ヴァイオレットは我に返った。

 長年仕えている侍女が数名、ぞろぞろと入室してくる。

「御支度のお手伝いにあがりました」

 そういえば、先ほど呼んで来るよう言いつけたことを、今更ながらに思い出す。素気無く追い出した侍女の姿は見えなかったが、もちろんヴァイオレットは気にしない。


 入室した侍女らは、慣れた手つきで洗顔のための温湯や石鹸を用意し始めた。ある者は一部屋ほどもあるクロゼットから今日のドレスを見繕い、ドレッサーから相応しいアクセサリーを選び取って、各々がヴァイオレットの意向を伺いにやってくる。彼女は肌の手入れを受ける片手間に、あれやこれやと文句をつけては、それらを却下した。それを、満足するまで繰り返す。

 それもまた変わらぬ日常の一つだったが、ヴァイオレットは脳内で、一つの算段を講じていた。


 ――夢の中で、あちらがこちらに初めて反応したのだ。

 裏を返せば、いままでは気づいていなかった、ということだ。

 目的は依然不明だが、何か――ようやく一方的にやられるだけの嫌がらせから、一歩抜け出せる予感がする。


 魔法が使えるのが己だけだなどと驕っているなら、思い知らせてやらなくてはならない。もっとも女神に愛されているのが、だれなのか。


 ヴァイオレットは自分という存在を理解していた。夢をどうこうする術は知らずとも、彼女の高い魔法力は、意図せずとも彼女自身の存在を護る。傷一つ負わせられなかった、先日の事故と同様に。


 ――今夜は指輪を外さないようにしなくては。


 心の中で呟いて、左手の薬指に指輪をはめた。

 はめ込まれた石は、海より深いディープブルーに輝いている。ヴァイオレットを世界一の淑女へと押し上げる奇跡の石だ。


 そうしてようやく、ヴァイオレットは決まったドレスに袖を通し始めた。

「ちょっとふざけないで。このドレスにその髪飾りを合わせるなんて、あなた正気なの?今すぐ選びなおしてちょうだい。首をはねるわよ」



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ナイトメア フロム V Na @na_tsu_

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