25 神聖ローマ帝国

ミサ〉 東フランク王国その後について見ておこうか。いわゆる神聖ローマ帝国へスライドしていくんだが・・・・・・かなり有名だよな、神聖ローマ帝国って。

 最盛期には、現在のドイツ、オーストリア、イタリア、チェコ、スイス、オランダ、ベルギー等々を版図にしていたぞ、すげぇな。


我聞〉 それも世界史で習いますね。


ミサ〉 東フランク王国では、シャルルマーニュ(カール大帝)の血を受け継ぐカロリング朝が絶えてしまい、フランク人ですらないザクセン人がザクセン王朝を開いた。


我聞〉 もはやフランク王国って感じではないですね。


ミサ〉 そうだな。実際、フランク王国とは呼ばれなくなっていく。

 さて、962年、オットー1世がローマ教皇から帝冠を受けた。前任の皇帝はいなかったんだ。皇帝が絶えてしまい、空白期間となっていた。

 当時、東フランク王国の実情はというと、まるで部族連合のような感じで一体感を欠いていたから、オットーもまたキリスト教界を利用し、それとツールとし、王国を束ねていこうとしたんだろう。


我聞〉 シャルルマーニュと似た展開ですね。バラバラな支配地を束ねるため、キリスト教的権威、を求める・・・・・・


ミサ〉 ただ単に権威だけの話ではなく、現実的な効果もあったさ。これは「帝国教会政策」と呼ばれてるんだが、まず、教会領、大修道院領を保護し、味方につけている。これにより、各地に点在する教会領・大修道院がな、各部族の地域的連携を絶つ楔として機能するように仕向けたんだわ。連帯して王権に逆らってこないようにした。

 また、教会領のトップである司教は生涯独身だからさ、世襲権力化する恐れもない。そのあたりの事情も手駒として使うには好都合だったろう。

 ところで、オットーがシャルルマーニュ(カール大帝)と違ったのは、彼の場合、ローマ教皇の〈下〉で帝冠を受けたわけではあるが、同時に、教皇選出の際には皇帝が関与できる、ってなルールをつくったこと。


我聞〉 皇帝が教皇の人選に介入できるとするなら、そうなると、むしろ皇帝の方がローマ教皇よりも〈上〉に見えてしまいますね。


ミサ〉 そうそう、どっちが〈上〉なのか、〈下〉なのか、よくわからんくなる。

 〈宗教的権力〉にあやかりたい〈軍事的権力〉&〈政治的権力〉、つまりオットーの側からすれば、〈宗教的権力〉=教皇の風下に立たざるを得なくなるが、一方では、〈軍事的権力〉にあやかりたい〈宗教的権力〉&〈政治的権力〉であるローマ教皇もまた、〈軍事的権力〉=皇帝の風下に立たざるを得なくなるわけだ。複雑だな。


我聞〉 あ、でも、皇帝って、キリスト教的権威、〈宗教的な権威〉だけではなしに、かつてのローマ帝国を彷彿とさせる、連想させる、威光、みたいなものも宿ってますよね。

 単に〈宗教的権力(権威)〉とだけ呼んでおくのは不適切じゃないですか?


ミサ〉 それはまぁ、そのとおり。

 これまで〈宗教的権力〉について明確な定義をしておかなかったが、こいつはな、そこそこ幅広に解釈してほしいんだわ。

 神聖なもの、とか、伝統的なもの、とか、そういうオーラ的なものを含めておいてほしい。


我聞〉 なるほどね。


ミサ〉 で、どっちが〈上〉かという皇帝と教皇のマウント争いはな、かの有名な、カノッサの屈辱へつながっていく。


我聞〉 おー、カノッサの屈辱! 知ってますよ。


ミサ〉 有名だしな。

 一応、簡潔に解説しておくと、まず、ローマ教皇からすれば、その選出にあたり、皇帝が関与してくるというのは邪魔くさいので、排除したくもなる。ローマ教皇・ニコラウス2世(在位:1059-1061)は、以後、枢機卿団による相互選挙(コンクラーベ)により教皇を選出するので、よろしく! っと、教皇令を勅す。


我聞〉 てめぇ皇帝、関わってくんなよ、ってな感じですね。


ミサ〉 そういうことなんだが、もちろん、そんなの皇帝が認めるわけがない。ますます溝が深まるわけだ。

 で、教皇グレゴリウス7世(在位:1073-1085)のときに、皇帝ハインリッヒ4世との間でな、バトルがピークに達する。

 とりわけ帝国統治の仕組みに直結する問題だった聖職叙任権をめぐり、衝突する。

 というのも、さっきも言ったが、それぞれの教会領というのはイコール在地勢力となり、根を張っていたから、そのトップをだ、皇帝が任ずるのか、あるいは教皇が任ずるかで、それこそオセロゲームのように権力関係、勢力図が変わってしまうわけだ。


我聞〉 えらいこっちゃ。重要な問題ですね。なるべく自分の息がかかった人間を任用しておきたいですもんね。


ミサ〉 そうそう。

 で、グレゴリウスはな、皇帝シンパの司教をだ、聖職売買を理由に破門しちまった。強硬策だな。誰が司教にふさわしいかは、オレが決めるんだ、と言わんばかり。

 すると、キレたハインリッヒが、今度は教皇を廃位せんと画策を始める。

 と、やはりキレたグレゴリウスが、皇帝を破門しちまう! 伝家の宝刀を抜いた。


我聞〉 う~ん、でも、皇帝サイドからすれば、勝手に言わせとけばいいんじゃないですかね? 破門? で? 勝手にどうぞ、みたいな。


ミサ〉 甘いなぁ。ハインリッヒの勢力圏も一枚岩ではないのだよ。破門された王なら、排斥するに大義名分が宿るだろう。アンチ・ハインリッヒな連中はだ、俄然活気づいてしまうのだよ。

 で、カノッサの屈辱だ。

 ハインリッヒは、わざわざカノッサ城まで出向き、門前に立ち、教皇に詫びを入れた。


我聞〉 教皇の勝ちですね。


ミサ〉 とりあえず、な。

 しかしまぁ、そんな簡単な話ではないのだ。1122年、教皇カリクストゥス2世と皇帝ハインリッヒ5世との間で、ヴォルムス協約が結ばれる。一応、聖職者の叙任権は教皇がもつ、ということで落ち着く。が、その後もマウント争いは延々と続いていく。ヴォルムス協約もなんだかんだで機能しなくなる。


我聞〉 そんな顛末を、大局的に図式化して説明するなら、繰り返しになりますが、〈宗教的権力〉をまといたい〈軍事的権力〉&〈政治的権力〉=皇帝VS〈軍事的権力〉を手なずけたい〈宗教的権力〉&〈政治的権力〉=教皇、つーことで、両者並び立たず、ってな感じになるんでしょうね。


ミサ〉 危ういバランスの上に立ってるんだよなぁ、西洋中世って。

 さて、フリードリッヒ1世(通称バルバロッサ/ローマ皇帝在位:1155-1190)の時代になると、この王国は「神聖帝国」を名乗るようになった。ここには、帝国を治める皇帝とは、ドイツ諸侯の選挙を経て、神意に基づき(だから神聖)、帝冠を授かるのだわい(本来、教皇の意志なんて関係なくね?)、といった意志がこめられていよう。

 そんなこんなでマウント争いが終わらない一方で、フリードリッヒ2世(ローマ皇帝在位:1220-1250)の代になると、大司教、司教を切り崩して味方につけるべく、特権を付与し、結果、教会領は半ば独立勢力と化していく。諸侯化していく(「聖界諸侯との協約」1220年)。さらに、その後で、今度はドイツ諸侯にも特権を付与してしまい(「諸侯の利益のための協定」1231年)、今でいうドイツの地はというと、もはや無数の領邦国家の集まりといった感じになってしまった。

 あ、ちなみに、このフリードリッヒもまた教皇から破門されているぞ。

 で、フリードリッヒが亡くなると、しばらく戴冠される皇帝が出現しなくなり、いわゆる「大空位時代」が訪れる。そして、じつはな、この間にこそ、我らがよく知る「神聖ローマ帝国」という名前が使われるようになったんだな。


我聞〉 なんつーか、もっともダメなときに、もっとも仰々しい名前がついたんですね。


ミサ〉 まぁそうだね。

「大空位時代」が終わる頃になると、今度はフランス王家が勢力を拡張し、教皇とぶつかるようになっていた。ついには1303年、教皇を襲って捕えちまう(アナーニ事件)。で、その後は別の教皇を擁立した挙げ句、1309年になると、教皇庁そのものをローマからアヴィニョンへ移してしまう(教皇のバビロン捕囚)。

 以後、約70年にわたって教皇庁はアビニョンに在り、教皇もフランス南部出身者が占めるようになった(1)


我聞〉 それって、〈宗教的権力〉をドイツ側の手中から奪ってやろう、ってな意図もあったんですかね?

 たしか、フランス王も皇帝位を欲しがってたはず・・・・・・


ミサ〉 だから、そんなフランス寄りになった教皇庁と、神聖ローマ帝国、ドイツの王がうまくゆくはずがないよね。

ちなみに、君の言うとおり、その後もフランス王は皇帝位に魅せられており、フランソワ1世(在位:1515-1547)の代になると、いよいよ皇帝選挙にまでからんできた。自身が皇帝になろうとした。

 とはいえ、さすがに横から入ってきてもムリがあり、選挙戦は敗退したがね。フランソワって、ドイツゆかりじゃねぇし、みたいな。

 さて、1328年、ドイツ王ルートヴィッヒ4世はローマに赴くと、教皇をスッ飛ばして帝冠を受けてしまう。もはや教皇なんて関係ねぇし、オレはあくまでローマ王として皇帝を継ぐのだ、というわけさ。

 さらには1338年、諸侯会議において、有力諸侯である選帝侯がドイツ王を選ぶわけだが、もうそれだけで皇帝になれんじゃね? ローマ教皇要らなくね? といった宣言まで出るようになる。

 そして1356年、カール4世の「金印勅書」に至るんだ。選帝侯会議の票決は、教皇の承認を必要としない、ということがハッキリと示された。つまり、教皇の意向なんて関係なしに、選帝侯会議でトップを選ぶのさ! ということ。

 ただし一方では、そのぶん、七選帝侯の特権(裁判権、鉱山採掘権、貨幣鋳造権、関税徴収権など)が強化されてしまい、もはや帝国内に七つの王国がある、といった様相を呈するようになってしまった。 

 ところで、ハプスブルク家って聞いたことない?


我聞〉 ありますよ。


ミサ〉 前段として、ハプスブルク家のマクシミリアン1世が皇帝(在位:1508-1519)になったとき、政略結婚を通じ、その勢力を拡大していった。ハプスブルク家の時代、ハプスブルク家の天下がやってくる。

 ちなみに、このマクシミリアン、ローマへ赴くこともなく、教皇を介すこともなく、帝位に就いている。まぁ要するに、こうなるともう、ローマ関係ない感じだよね。

実際、マクシミリアンは「ドイツ国民の神聖ローマ帝国」という国号を使うようになった。


我聞〉 実質的にはドイツ王国、みたいな感じですね。


ミサ〉 そうだね。

 さて、マクシミリアン亡き後、時代は流れて、ハプスブルク家はさ、オーストリア・ハプスブルク家と、スペイン・ハプスブルク家に枝分かれしていく。

 このへんのハプスブルク家のお話に興味があれば、江村洋『ハプスブルク家』(講談社現代新書、1990)なんて本がある。


我聞〉 そっから先の話は、お店の中で聞いた「三十年戦争」、そしてウェストファリア条約、ですね。


ミサ〉 ので、説明は割愛しちまうが、三十年戦争は、帝権を拡張しつつあったハプスブルク家を、アンチどもが包囲して頭を抑えた、叩いた、という側面があるよな。

 たとえば、研究者の菊池良生さんも、〔三十年戦争に敗れることにより、神聖ローマ帝国を皇帝独裁の中央集権体制に作り変えようとするハプスブルク家の野望は消えた。(2)と総括している。

 で、ウェストファリア条約を経て、帝国内の諸侯が自立の度合いを深めていく。また一方では、西欧世界の覇権がさ、フランスへ移り、皇帝ナポレオンの登場を見ることになる。

 神聖ローマ帝国はというと、最終的には1806年、すでに版図を縮小していたところ、ナポレオンの圧が強まり、皇帝は帝国の解散を勅すことになった。そして、自身はというと、初代オーストリア帝国皇帝に留まる道を選んだのさ。

 これは余談だが、神聖ローマ帝国を第一帝国とし、1871年にプロイセン王国主導で統一されたドイツ帝国を第二帝国と位置づけ、自らを第三帝国と称したのが、ナチスだよ。


我聞〉 ざっと流れは理解しました。


ミサ〉 もちろん、今は歴史の勉強をしているわけではないので、とりあえず、君が言ったとおり、ざっくり、〈宗教的権力〉をまといたい〈軍事的権力〉&〈政治的権力〉=皇帝VS〈軍事的権力〉を手なずけたい〈宗教的権力〉&〈政治的権力〉=教皇、という対立軸だけイメージしといてもらって、話を先へと進めよう。





1 1377年、教皇グレゴリウス11世はローマに帰還したが、その一方で、フランス人の枢機卿が別の教皇を立ててしまう。

 かくして、ローマとアヴィニョンにそれぞれ教皇が誕生するという「教会大分裂(シスマ)」が起きる。


2 菊池良生『神聖ローマ帝国』講談社現代新書、2003:P229

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国家とはなにか? 千夜一夜 @kitaro_n

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