24 フランク王国

ミサ〉 さて、西ローマ帝国亡き後、その版図がどうなったか、というと、ゲルマン諸王国による群雄割拠となった。

 で、その中から、クローヴィス1世(在位481-511)のフランク王国が頭角を現してくる。

 あ、ちなみに、フランク王国というのは、その名前からなんとなく連想されるとは思うが、位置的に、その後のフランスにつながっていく。

 このクローヴィスだが、キリスト教(ローマ・カトリック)に改宗している。これにより、ゲルマン系の諸王の中では唯一、ローマ帝国テイストの宗教的権威を帯びることになった。

 これはおそらく、周辺諸部族・在地勢力を束ねていく過程において、ローマ帝国由来のオーラで身を包みたかったのだろう。

 また、ゲルマン系のフランク王国とはいっても、ゲルマン人口はたかが5%程度だったと言われている。旧・西ローマ帝国を支えてきた在地有力層からの支持を集めるためにも、ローマ・カトリックへの改宗はプラスに作用したことだろう。


我聞〉 わかります。やはり王は、〈政治的権威〉〈軍事的権威〉だけではなしに、〈宗教的な権威〉をも欲するのでしょう。


ミサ〉 そのとおりだ。

 さて、クローヴィスが亡くなると、フランク王国は息子たちの間で分割統治されることになる。というのも、フランク人には男子均等相続の慣習があったからだ。


我聞〉 そんなことしてたら、相続のたびに王国が小さくなっちゃいますよ。弱体化しませんか? 自殺行為だ。


ミサ〉 我らの感覚からすると、そのとおりなんだが、ゲルマン王にとって、王国というのはさ、結局、王家の財産だったのだよ。だからさ、私的財産だからさ、子どもたちに分け与えられていくのだ。

 しかしまぁ、たしかに厄介な伝統で、バラバラになったフランクの分王国はさ、調和を保つことができず、すったもんだで互いに争い、そのうち誰かが再統合したとしても、そいつが死ぬと、また子孫に分割相続されちまい、また争う、なんてことを繰り返しちまうわけだ。なんだかなぁ、と思うよな。

 とはいえ、今はフランス史を語っているわけじゃないから、そのへんの話はスッ飛ばす。

 フランク王国では、カール・マルテル(688頃-741)という宮宰(王の側近)がのし上がり、王よりも権力をもつようになる。で、751年、その子ピピン3世の代になるとだ、とうとう王を排斥しちまい、自身が王位に就くのだ(カロリング朝がスタート)。

 そんな後ろめたいことをしちまったピピンだから、王位を簒奪したのではなく、王位に就くのが正当であることをアピールするため、ローマ教皇ステファヌス2世にさ、「塗油儀式(身体に聖油を塗る)」を頼んだりした。754年、パリ北部のサン・ドニ修道院で息子たちと共にそれを受けた。

 つまり、王になるのは神意だと、自分は「神によって選ばれた王」なのだと、そんなイメージをつくりたかったのだろうよ。


我聞〉 もはや定石だ。王は〈宗教的権威〉に飛びつく。


ミサ〉 ちなみに、「塗油儀式」の返礼として、ピピンは後に、ランゴバルド人から勝ち取ったイタリア北部から中部にかけての支配権をローマ教皇に譲っている(ピピンの寄進)。

 これが「教皇領」のスタートとなる。ローマ教皇は独自の経済的基盤をゲットしたんだ。


我聞〉 ローマ教皇はローマ教皇で、〈宗教的権力〉の他に、〈政治的権力〉、政治経済的基盤をもった、ってことですね。

 となると、さらに〈軍事的権力〉まで欲しくなりませんか?

 あ、でも、聖職者が軍隊を持つなんて、おかしいですよね。


ミサ〉 いや、おかしくないぞ。実際、〈軍事的権力〉をも手に入れようと動くようになる。とはいえ、直接軍隊をもつ、というのではなく、軍事的後ろ盾を得ようとするのだ。

 それについては、この後で話す。

 さて、歴史を細かくみていけば冗長になるだけなので、我はここで、ピピンの息子、シャルルマーニュ(ドイツでは、カール大帝と呼ぶ)だけに注目したい。

 シャルルマーニュはな、同じくフランク王国を分割相続していた弟が死に、王国を一つに束ねると、戦争、戦争、戦争で勢力圏を拡大していく。最終的には、南はイベリア半島、北は現在のデンマーク、東は現在のハンガリーに至るという広大な、それこそほぼ西欧全域にわたるエリアを手に入れた。

 ところが、だ。版図が広がれば広がるほど、王国は毛並みの違う多様な地域を包含していくことになる。様々な民族が暮らし、様々な言語が用いられるという、いわば多民族国家っぽい感じになっていく。

 そうなると当然、全体をこう、できるだけ一つのカラーに染めたくなるもので、それを可能にするツールが求められるようになる。シャルルマーニュにとって、それがキリスト教だった。

 西欧中世史が専門の五十嵐修さんも、シャルルマーニュはフランク王国を宗教共同体として、キリスト教帝国として一つにまとめようとした、と評しているぞ(1)

 実際、800年のこと、シャルルマーニュはローマのサン・ピエトロ大聖堂で、ローマ教皇レオ3世からローマ皇帝の戴冠を受けることになった。

 ローマ教皇からすれば、隣の東ローマ帝国、いわゆるビザンツ帝国および東の教会とはライバル関係にあったわけで、覇権を奪うには、キリスト教界のトップはこっちだよ!とヘゲモニーを握るには、フランク王国を後ろ盾に据えるのが有効だった。


我聞〉 さっき言ってた話ですね。ローマ教皇もまた、〈宗教的権力〉〈政治経済的権力〉を得るだけでは飽き足らず、〈軍事的権力〉にアクセスしようとした。つまり、軍事的な後ろ盾を得ようとした。


ミサ〉 そのとおり。

 一方で、シャルルマーニュの側からすると、旧・西ローマ帝国、西のローマ・キリスト教界に君臨するのはこのオレだ!ってことで、ローマ教皇からお墨付きを得たことになるだろう。

 これには二重の意味合いがある。さっきも言ったとおり、バラバラな国土を一つに、キリスト教をツールに一色に染め上げていくことで、そこに、まとまりがもたらされる。しかも、そうすることが神意であり、自らは神意に基づき、行動し、統治している王、ということになる。

 さらには、オレはかの西ローマ帝国皇帝の後継者だよ!ってことをアピールできる。簡単に言うと、自身が旧・西ローマ世界を支配していくことについての正当性が得られる、ってもんよ。

 ちなみに、当時、東のビザンツ帝国はトラブってて、はじめての女帝が誕生していたのだが、あんなのローマ皇帝じゃねぇよ、ってな空気がこの背景にあった。シャルルマーニュは、オレこそ真のローマ皇帝、と一応はアピールできる状況にあったわけ。

 とはいえまぁ、結局、西と東、お互いがお互いを心底「ローマ皇帝」として認め合うことはないんだな。それは当たり前の話で、あっちを正当視すれば、こっちの権威が陰るから。


我聞〉 西と東、どっちが権威ある、正統なローマ皇帝?とかいう権威争いもあるとは思うんですが、少し話が戻りますが、シャルルマーニュに戴冠したのがローマ教皇、ってことはですねぇ、あくまでイメージとしては、シャルルマーニュはローマ教皇よりも〈下〉ってことになりますよね? こっちのほうの権威争いもあるんじゃないですか?

 そんなんでシャルルマーニュは納得したんですかね?


ミサ〉 そんなの本人に訊いてみないとわからんが、ただ、この、なんつーか、ローマ教皇が〈上〉なのか〈下〉なのか、という問題はな、その後、尾を引くぞ。それこそ近代に至るまで尾を引く話だな。

 しかしまぁ、いずれにせよ、シャルルマーニュはとりあえず〈宗教的権威(キリスト教的及びローマ的・伝統的権威)〉が欲しかったのだろうよ。

 それでようやく、〈軍事的権力〉〈政治的権力〉〈宗教的権力〉が3点セットで揃うのだし。


我聞〉 強大な王権が誕生しますね。


ミサ〉 そうなる。ただし、シャルルマーニュがさ、これまで語ってきたような〈超越的王権〉をゲットするところまで行けたかというと、そうではないだろう。

 あともうひと踏ん張り、ってなところまでは迫っていた気もしなくはないけれど。

 〈政治的権力〉について概観すると、シャルルマーニュは王国を約500の地域に区分し、それぞれ自分の息がかかった「伯」を任じ、治めさせていた。また、国王巡察使を各地へ派遣し、それら地方行政の要である「伯」と中央を結ぶパイプとしていた。


我聞〉 おー、中央集権っぽいですねぇ。


ミサ〉 完全なる中央集権にはほど遠いものであったとしても、とりあえず、そちらの方向へ進もうとした努力は見られるわけだな。

 ちなみに、余談だが、それまでフランク王国には首都というものがなかった。いわば王のいるところが首都であり、王の移動と共に政治的中心も移動していた、のだが、シャルルマーニュはアーヘンに宮廷を置き、首都化している。中心が、芽生えている。


我聞〉 中心のない〈超越的王権〉なんて、ちょっとヘンだ。


ミサ〉 とはいえ、志半ば、というべきか、人間の命には限りがあるもので、シャルルマーニュも死んでしまう。

 で、後継者となったルイ1世はというと、再び息子たちに王国を分割相続させちまい、これがまた争いの火種となる。

 結果、すったもんだで843年のヴェルダン条約、870年のメルセン条約を経て、フランク王国は「東フランク王国」「西フランク王国」「イタリア王国」に分かれちまう。

 以後、統一されることがなく、それぞれが現代でいうドイツ、フランス、イタリアのルーツになっていく。


我聞〉 バラバラになっちゃったわけですね。


ミサ〉 いったん、ここまでを簡潔に整理してみよう。

 〈政治的権力〉〈軍事的権力〉〈宗教的権力〉の一点集約が〈超越的王権〉だとするなら、ポスト・ローマ帝国の時代、西欧で最強国だったフランク王国だが、それが誕生しなかった。

 〈宗教的権力〉のゲットにキリスト教を利用したのは、まぁいいだろう。しかしキリスト教は諸刃だったとも言える。

 まず、キリスト教は民族宗教とは違い、普遍宗教だ。民族や国家のカベを越え、どこまでも浸透(布教)していく。誰もが入信できる。門戸はフル・オープン。ローマ帝国で国教化されたことが大きな要因となり、西欧世界に拡散していた。

 だから、網の目のように広がるキリスト教を、バラバラな国土をその網の目で束ねていく、という戦略は有効だったろう。

 しかし、キリスト教の中心にはローマ教皇がいるんだ。もちろん、東の教会と西の教会は対立していたわけだが、いずれにせよ、それがどうであれ、王権がキリスト教の、〈宗教的権力〉の中心に滑り込もうとするなら、ローマ教皇とか教会権力が邪魔になるだろう。

 もし、たとえばアステカ王国のようにさ、アステカ王国でしか通用しない独自の神がいて、〈宗教的権威〉があり、王自身がその権威をまとっていたとしたら、どうだろう? エジプト王国のように、王自身がご当地にしかいない神の、その化身であったとしたら、どうだろう? この場合、フランク王国のケースと比べれば簡単にさ、〈超越的王権〉へ飛躍できるってもんだ。


我聞〉 言ってしまえばフランク王国の場合、王自身がローマ教皇にならないと、まぁムリですね、〈超越的王権〉に化けるには。

 しかもキリスト教というのは、フランク王国のご当地宗教ではなく、普遍宗教・・・・・・

 普遍宗教のトップというのは、グローバルなトップであり、フランク王国の王というのは、いわばローカルなトップ・・・・・・重ならない。


ミサ〉 まぁそういうことだね。

 王権が〈超越的王権〉へ進化するには、ローマ教皇が邪魔になる。ここが、ポイントだ。

 一方では、ローマ教皇にしても、すでに〈宗教的権力〉はもちろんとして、〈政治的権力〉に手を染めておる。

 ここでもし、さらに〈軍事的権力〉を入手できたなら、もはやローマ教皇が〈超越的王権〉になっちまうだろう。

 しかしだ、ローマ教皇が〈軍事的権力〉を直接的にゲットすることはできない。あくまで世俗的な〈軍事的権力〉とタイアップすることで、間接的にゲットしていくことになるんだ。ここも、ポイントさ。

 人間になれない妖怪人間ではないが、〈超越的王権〉になれない王権と、ローマ教皇、二頭の妖怪権力がうごめく、それが、ポスト・ローマ帝国時代の西洋社会なんだな。

 まぁ、これについては、後でもう一度振り返って論ずるとしよう。

 その前に、完全に東ローマ帝国、いわゆるビザンツ帝国については放置しているので、そのへんを少しふれておきたいところだが、冗長になるので、やめておく。

 一般書として読めるものに、中谷功治『ビザンツ帝国』(中公新書、2020)がるあるし、そのほか、これは分厚いが、ジュディス・ヘリン『ビザンツ 驚くべき中世帝国』(井上浩一監訳、白水社、2021)があるので、オススメしておく。


我聞〉 はいはい。


ミサ〉 と、言いつつ、とりあえず、西フランク王国については述べてきたので、東フランク王国、そして神聖ローマ帝国については、簡単に概観しておこうかな。


我聞〉 はいはい、どうぞ。

 




1 五十嵐修『地上の夢 キリスト教帝国 カール大帝の〈ヨーロッパ〉』講談社、2001

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