23 ローマ帝国(3)
ミサ〉 さて、軍人皇帝時代の後、ディオクレティアヌスの後で、有名な皇帝としては、コンスタンティヌス(在位306-337)がいる。ローマの東方クリック・コピペを狙ったともいえるコンスタンティノープル(のち、東ローマ帝国の首都)を建設したり、ミラノ勅令(313年)でもって、それまで弾圧されることしばしばだったキリスト教を公認したりした。
ちなみに、この時点では、ローマ帝国内のキリスト教徒は5から10%程度だったろう、と推測されている。マイナーなんだな。しかしこの皇帝公認が、その後のキリスト教の加速度的普及に決定的な役割を果たした、とみるべきだろうし、そう主張する論者がいる
とはいえ、キリスト教が国教化されるのはまだ先の話(392年)で、テオドシウス(在位379-395)の時代だ。テオドシウスはまたまた分裂していたローマ帝国を再統一する。
で、そのテオドシウスが死ぬと、二人の息子が西ローマと東ローマ、それぞれの皇帝となり、いよいよローマ帝国は本格的に東西に分裂しちまう。ちなみに、東西どっちが強かったかというと、東で、この時点ですでに、軍事力、経済力ともに西ローマは東ローマに比べて劣っていたらしい。
そいでもって、いよいよ世間で言うところのローマ帝国滅亡、正確に言うと、西ローマ帝国の滅亡へと至る。
我聞〉 あれでしょ。気候変動(寒冷化)とかがあって、異民族の大移動があったせいでしょ。まずは東方からフン人が西へ移ってきて、玉突きのように、今度はゲルマン人が西へ、ローマへ、侵入することになる。学校で習いました。
ミサ〉 まぁ教科書とかにはそう書いてあるが、いきなりゲルマン人の軍団に襲われたわけではないぞ。そもそもかなり前からゲルマン人はな、ローマ帝国内へしれっと移住し、入ってきている。
で、ゲルマン人は人員不足気味だったローマ帝国軍の兵士となり、実力さえあれば軍団の幹部にも登用されていたし、果ては最高司令官まで登り詰めた輩もいる。
あ、そうそう、ゲルマン人というのは他称で、自称ではないぞ。よくあるパターンだが、ゲルマン人というのは、地中海周辺の人々からみて、せいぜい「北の野蛮人」を意味する程度の名称でしかない。ゲルマン人なる固定的な民族のようなものが存在した、と考えてはいけない。利害などに応じて、離合集散を繰り返す流動性の高い集団だったろう
我聞〉 そういえば、たしか476年、最終的に西ローマ帝国を倒したのも、ゲルマン人ではありますが、傭兵隊長でしたもんねぇ、オドアケル。
たしかに、ゲルマン人は内側に入り込んでますね。
ミサ〉 倒した、っつーと、ちょっとニュアンスが違うんだな。
オドアケルはな、ローマ軍の中で出世してきており、元老院からも評価されていた人物だ。だから彼が首都ローマを蹂躙し、争ってブッ倒した、というわけではないんだ。幼帝ロムルス・アウグストゥルス(在位475-476)に退位を迫り、その帝位(皇帝の標章)を東ローマ帝国へ返還した、という感じ。ローマの元老院は依然として健在。
たとえば、古代ローマ史が専門の田中創さんは、〔あくまで首都ローマの元老院とそこに駐屯する軍隊が独自に皇帝を擁立することをやめたというのがより正確な説明である。その意味では、四七六年はローマ国家の滅亡の年では全くない。語弊を承知で敢えて言えば、ローマ市は元老院と市民たちと傭兵軍から成る新しい国家体制を模索し始めたのである。〕と言っている
我聞〉 たしか、その頃にはもう、西ローマ帝国って、イタリアの地方政権くらいの力しかなくなってたんですよね?
ミサ〉 帝国西半では、在地の有力者が強く、すでに皇帝政府からいくらか自立していた。そこへ辺境部族が入り込んできた。辺境部族がローマ化してローマ軍として働いているうちは平穏でいいが、こちらもまた帝国から自立するようになってくると、いよいよもう、そこは政治的にも軍事的にもエリア的に帝国から浮いてしまう。
実際、〔「西ローマ帝国」のなくなった後、西地中海世界に現れたのは、王を名乗るゲルマン人をリーダーとする軍事集団を、在地の貴族層が支える社会であった。その外見的な構造自体は、帝政後期の軍隊とそれを支える貴族・地主集団の関係と同じである。しかし、軍事的覇権の及ぶ範囲は縮小し、地域ごとの分立状態は強まった。
で、ここが肝心なのだが、そもそも、そのような動きが発生していった根本的理由について、古代ローマ史が専門の南川高志さんがな、興味深い指摘をしているぞ。
まず、諸部族がローマ帝国内へ侵入してきた。そこで小競り合いが、バトルが発生する。そうなると、肝心要のイタリアを第一に護らにゃならん、つーわけで、各地(フロンティア)から軍隊を中央へ召還してしまった。その結果、余計に辺境(フロンティア)が手薄になってしまい、さらなる侵入を招いてしまう、という事態に陥った。
で、帝国が辺境域から瓦解していく、といったパターンで西ローマ帝国の広域的統治が破綻していくんだが、ここで南川さんはな、そもそもそれ以前の問題として、いわばローマ帝国なんてものが在ったんだろうか、在ったとするなら、それはどのようなカタチで在ったんだろうか、と問い詰めている。というのも、もともとローマ帝国というのは、担い手(支配層)も境界(支配圏)も案外曖昧なものだったからだ。しかし、それでもやはり、ローマ帝国なるものが厳然と存在しているようにみえる。なぜか? 南川さん曰く、それは、フロンティア各地の軍隊および支配層が「我々はローマ人である」というアイデンティティを共有していたからだ、ということなんだ。
我聞〉 え、どういうことですか?
ミサ〉 平たく言えば、ローマ帝国とは何か? それは「我々はローマ人である」というアイデンティティを共有する集合体である、ということなんだろう。
南川さんは、〔ローマ帝国に統合を与えていたのは、「ローマ人である」というアイデンティティと考えたい。ローマ帝国とは、広大な地域に住む多様な人々を、「ローマ人である」という単一のアイデンティティの下にまとめ上げた国家であった〕と語る
このような場合、ローマ帝国の境界とは、「我々はローマ人である」という自己認識をもつ兵士たちが守護している軍事駐屯線のことであり、その範囲がすなわちローマ帝国だ、ということになる。
これを理解するには、そもそもローマ帝国の成り立ちを概観しておく必要がある。
ローマは近隣を制圧し、やがては同盟市を増やすようになり、さらにはエリア的に広く統治する属州支配へと至る。ローマが属州支配をスタートするのは、第二次ポエニ戦争(紀元前218-201)の後からで、それ以前、ローマ傘下に組み込まれたイタリア半島の国々はというと、みな同盟市だった。
で、ここが肝心なのだが、ローマがどのように広域支配していたかというと、「ローマ市民権」を広めることによって、ということなんだ。
まず、「ローマ市民権」の特権的価値が高まると、紀元前91年(~88年)に同盟市戦争が勃発。ローマ側が譲歩し、イタリア全土の同盟市がローマの地方都市となり、地方都市の市民にローマ市民権が広がっていく。そして最終的には212年、カラカラ帝の「アントニヌス勅法」により、全自由民に与えられるようになった。
我聞〉 ローマ市民権のメリットって、具体的にいうと、どんなものがあるんですか?
ミサ〉 なんといっても兵役免除だろう。当初は兵役とセットの市民権だったが、ローマが徴兵制から志願制へ移行するにともない(マリウスの軍制改革)、そうなった。
ちなみに、ローマ市民権をもたなくとも、ローマ兵に志願し、20年間勤め上げると、ローマ市民権をゲットすることができた。
そのようにして、「我々はローマ人である」というアイデンティティへ収斂していくような仕組みが帝国には備わっていたわけだ。
『妖怪人間ベム』の「はやく人間になりたーい」ならぬ、「はらくローマ人になりたーい」といったところだろうか。
実際、ローマ的ライフスタイル、ラテン語の使用や服装も含めて、そういうものがなんつーか、トレンドとして拡散していく。
しかし、だ。一方では、ローマ人であることに魅力がなくなったとしたら、どうだろう。具体的には、諸部族が侵入してきて、ごった煮、となり、かつ、それを追い払うだけの軍事力をローマ帝国が失っていく過程においてだ、つまり、もはやローマ人であっても、ローマ人ではない輩に地域が蹂躙されてしまい、ローマ軍もそいつらを始末してくれなくなったとしたら、どうだろう。ローマ人であることのメリットや権威がなくなり、在地勢力がアイデンティティにおいても自立してしまったとしたら、どうだろう?
南川さんが指摘するとおり、軍事的有力者や兵士たちが「我々はローマ人である」というアイデンティティをシェアしていることがローマ帝国の実体を支えていたのだとしたら、それを喪失したとき、ローマ帝国は霧散してしまう。バラバラになっちまう。だから南川さんは、〔ローマ帝国は外敵によって倒されたのではなく、自壊したというほうがより正確である
我聞〉 で、その後どうなったんですか?
ミサ〉 かつて西ローマ帝国だったエリアでは、次々と独立勢力が分離誕生していく。イベリア半島の西ゴート王国、ガリア中部にはブルグンド王国、北部にはフランク王国などなど。
我聞〉 「我々はローマ人ではなくなった」わけですね。
ミサ〉 そうだな。
で、中でも、フランク王国が強大化していくわけだが、その話は後回しにして、まずはローマ帝国について、ざっくりと総括しておこうか。
我聞〉 えぇ、どうぞ。
ミサ〉 再三の繰り返しになるが、「国家に抗する社会」、首長制社会では、〈唯一者〉に〈軍事的権力〉〈宗教的権力〉〈政治的権力〉が過度に集中しないよう、ストッパーがかかっていた。
逆に、それらストッパーが解除されてしまい、三権が集中すると、王権が誕生する。また、首長制社会では、共同体の中心に居座る首長は〈上方排除〉であり、かつ同時に〈下方排除〉でもあったが、王権では、〈上方排除〉固定となっている。
ところで、このような王権が引っ張る国家を、国家形態を、我は〈超越的王権国家〉とでも呼称しておきたい。
一般に、ある領地を排他的に、トップダウンで支配している者がいたとしたら、その者を広く「王」と呼んでしまうことがある。そうなると、我が言う、三権集中型の王権とは少し意味合いがズレてくるだろう。我の王は概念として狭い。ゆえに、我が語る王については、誤解なきよう、〈超越的王権〉とでも呼んでおこう、と思うのだ。
そして、そのような王が統治する王権国家をな、〈超越的王権国家〉としておく。
我聞〉 となると、ローマ帝国はどうなるんですか?
〈超越的王権国家〉ではなさそうですね。
ミサ〉 そうだよ。さっきも言ったことだが、そもそもローマの場合、そのような権力一点集中型の王を排除するところから歴史がスタートしてんだから。
〈政治的権力〉は、共和政期には、元老院、民会、執政官など、分有されていたし、〈軍事的権力〉がクローズアップされてくるのも、非常事態において、だったよね。〈宗教的権力〉についても、特定の権力者が生きている間に神だったり、神の子にされてしまうことはなかった。
うまく、三権が巧みに分断・配分されながら、〈超越的王権〉が、いわば独裁者が誕生しないようになっていた。
その後、皇帝が誕生し、帝政がスタートするわけだが、結局最後まで〈超越的王権〉が典型的なカタチでは立ち上がっていない。皇帝は現人神ではないし。
軍人皇帝時代以降になると、〈軍事的権力〉偏重型、といってもよい感じになる。〈軍事的権力〉偏重型では政権が安定しないと思う。実際、皇帝が軒並み誕生してはブッ殺されまくりであったことは、すでに述べた。
このようなローマ帝国とは、いったい何だったのだろう。
我はさしあたり、とくに帝政以降のローマ帝国について、〈ネットワーク型の軍事国家〉とでも呼んでおきたい。ネットワーク、という用語に込めた意味は二つある。
一つは、ネットワークといえば脱中心性が特徴だが、ローマ帝国もまた固定的な中心をもっていなかったのだ。「ローマがあるじゃねぇか!」とただちに反論されるかもしれんが、我はそう思わぬ。軍人皇帝時代以降、皇帝はお膝元の軍隊と一緒に動いており、ローマでドンと構えて鎮座していたわけではない。「皇帝のいるところが、ローマ」なんて言われるくらいだしね。
もう一つは、ネットワークの範囲というのは、接続されている範囲のことであり、接続するのも、切断するのも、わりと容易、という特徴を踏まえてのものだ。「我々はローマ人である」というアイデンティティをシェアし、接続されていく範囲が、ローマ帝国だった、ということにはならんか。でもって、そのようなアイデンティティが消えてしまったとき、つまりは切断したとき、そこはローマ帝国ではなくなる。
だから、我はこのような国家形態を、〈ネットワーク型の軍事国家〉と呼んでおきたいのだ、さしあたり。
我聞〉 軍事国家、の意味は? 〈軍事的権力〉偏重ってことですか?
ミサ〉 そうだ。皇帝は〈超越的王権〉のような高次元の宗教的権威をまとっていない。そこまで至っていない。また、時代と共に弱体化していったとはいえ、元老院という〈政治的権力〉の存在も見逃せないし。さらには、軍人皇帝時代に典型的だが、皇帝が軍からボトムアップ型で担ぎ上げられては誕生したり、軍から見放されて失脚、ブッ殺されてしまったりと、〈軍事的権力〉に翻弄されているようにみえる。
我聞〉 なるほど。でも、つまりそうなると、〈超越的王権〉が立ち上がらなくても、国家が誕生し得る、ってことですよね? ローマ帝国みたいに。
ミサ〉 そういうことになるね。ただ、長く続いたのが不思議なくらい、絶妙なバランスの上に成り立ってたような気がするんだよなぁ。
あ、今、何時?
我聞〉 3時過ぎてますね・・・・・・
ミサ〉 眠い?
我聞〉 なんか逆にね、眠くなくなってきましたね。なんたらハイ、みたいな。
ミサ〉 なんたらハイ、の意味がよくわからんが、まだ起きていられるなら、寝る前に、最後に、フランク王国の話をしておこう。
我聞〉 えぇ、どうぞ。
あ、そういえば、〈上方排除〉とか〈下方排除〉とかはどうなるんですか? ローマ帝国の場合は。
ミサ〉 宿題として、自分で考えてみてくれ。話が長くなってしまう。
我聞〉 雑だなぁ。
ミサ〉 〈下方排除〉には、当然、まずは奴隷が入ってくるが、ローマ帝国の場合、たとえば剣闘士、なんて存在も注目される。
また、その奴隷も、永遠に奴隷だったわけではなく、解放奴隷になったりした。
あるいはキリスト教に注目してもよい。迫害されることもあった〈下方排除〉なキリスト教は、後に反転して、国家宗教として〈上方排除〉されていくことになる。
なぜキリスト教は〈下方排除〉されたのか、あるいは〈上方排除〉されることになったのか。それだけで一冊の本が書けてしまうのだろうが、ここでは一点だけ、指摘しておく。
唯一者である〈超越的王権〉が〈上方排除〉だったように、キリスト教が一神教であったということがポイントだろうよ。他の神々を拒否し、唯一神しか認めない頑固なキリスト教は、ロジックとしては、〈下方排除〉されやすいし、かつ同時に、〈上方排除〉されやすいのだ。
まぁこのあたりのことについては、後で少しふれてみよう。
註
1 たとえば、ポール・ヴェーヌ『「私たちの世界」がキリスト教になったとき コンスタンティヌスという男』西永良成・渡名喜庸哲訳、岩波書店、2010
2 南川高志『新・ローマ帝国衰亡史』岩波新書、2013:第1章
3 田中創『ローマ史再考 なぜ「首都」コンスタンティノープルが生まれたのか』NHK出版、2020:P164-165
4 前掲『ローマ史再考』P199-200
5 前掲『新・ローマ帝国衰亡史』P202
6 前掲『新・ローマ帝国衰亡史』P207
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