第96話 絆(後)



「戻ったのだな、カイル」


男が静かに振り返る。

その異様な様相をいぶかり、思わず呟いてしまう——、


「お前は……誰だ」


カイルの目に映る、落ち窪んだアイスブルーの双眸。視線を定めない虚ろなそれは、確かに皇帝と呼ばれる男のものだ。

目の前の痩せこけた老人の口元が動き、言葉を発する。カイルは目を見開いて茫然とそれに聞き入った。


「……斬れ」


その声色は低いが細く、弱々しい。


わしを、斬りに来たのであろう?」

「その姿は何だ……!どうして……」


「儂はもう、生きていたとて、仕方がないのだ」


老人はゆっくりと振り返る。

カイルが姿を見せるずっと前から、彼はそこに佇んでいた——老人が身体を向けたその壁には、大きな絵画が掲げられている。


赤い花が咲き乱れる花畑。

花冠を頭に載せた美しい少女の、輝く笑顔。


その絵はかつて、皇女ティアローズの部屋に飾られていたものだ。


「さあ、斬れ。何を迷うのだ」


カイルは老人を睨む、弱々しく痩せ細っていようが、憎悪を向ける相手に変わりはない。


幼少の頃からただの一度もこの男を父親だと思った事は無い、「父」と呼んだ事も。皇帝の地位というものは、父親である前にそれほどに遠い存在でしかなかった。

この男の一存で、何百何千という命が易々と奪われた——人を人とも思わぬ鬼畜、それがこの男だ。


母とて……若かりし頃から病弱な身体で必死で灯し続けた人生を、この男に奪われ消されたと言ってもいい。


セリーナ……お前は、本当にすまなかったな。

こんな事をしたってお前が喜ぶとは思えないが、止められなかった。


ズ、ザッ———!!!


老人の背中目掛けて振り下ろした剣が、稲妻の火花を散らしながら——白い髪を散らし、肩を、背を掠めた。


カイルに背中を向けたまま、老人は絵画をじっと見上げている。

老人の薄青色の目から、一筋の涙が静かに流れ落ちた。


ハア、ハア、ハア……


剣を下ろした体勢のまま、カイルは大きく肩で息を繰り返す。額に冷たい汗が滲み、見開いた目を閉じる事が出来ない。


剣は青白い火を吹き続ける。いつかこの男の息の根を自分が止めてやる……長いあいだずっとそう思い続けてきたのだ。


———なのに俺は、どうして。


「カイル……それがお前だ。お前自身の弱さであり優しさだ。わしには無い、血の通った者のだ。そしてそれは、お前の母から与えられた宝だ。民衆はそんなお前を慕うだろう。恥じる事なく、その強さを盾にして生きよ」


カイルの荒がった息はおさまらない。だた静かに、老人の言葉に耳を傾ける。


「宮廷を去る前、お前はわしに言った」


——わたしは帝位を継ぎません。オルデンシア家の覇権はあなたの代で途絶えるでしょう。だがそれは、あなたがこれまでしてきた事の報いだ……!


「儂は、絶やしたくはない……お前の母であり、儂が愛した人の血を。我がオルデンシア家の血筋として残し、お前に繋げて欲しいのだ」


(俺の大切なものを奪っておいて。今更、何を勝手な事を……!)


絵画を背に老人が振り返る。睫毛を伏せ、表情の無いままに。


「安心しろ。お前の想う者は、まだ。怪我を負わせてしまったのは存外であったが」


カイルの心を読むような言葉に驚き、顔を上げる。この男……皇帝が何を言ったのか、すぐには理解ができなかった。


「……どう言う意味だ」


「スタンフォードにはお前たち二人を迎えに行かせたのだが、どうやら算段が外れたようだ。だが、幸いにも治癒能力者を同行させていた。このわしに似た無鉄砲な息子のためにな!」


……今、何と、言った?


「だが平民と皇太子の婚姻を許す事はできぬ。ゆえにお前が選んだに爵位を与えよう……わしからの、せめてもの祝いだ」


皇帝はロイスと供に、治癒能力者を同行させていた。


ならば、セリーナは……。


まだいかづちがほとばしる剣を勢い良く鞘にしまい、カイルは無言で皇帝に背を向けた。

心臓が鋼のように胸を脈打ち始める。

居室のあちこちで恐々と様子を伺っていた大勢の侍従たちを尻目に、駆け出した足は真っ直ぐに皇宮を目指していた。



アイツは……!!

ロイスは、今どこだ……!!!



⭐︎

⭐︎

⭐︎



カイルの気配が消えた居室で、痩せた男が大きく一つ息を吐き、妻の肖像画に向かって穏やかに微笑みかける。


人の心を持たない彼が、人生でただひとり心を惹かれ愛した妻の遺影をじっと見つめていれば、今この瞬間も目頭から熱い涙が溢れ出て止まらない……気狂いだの鬼だのと云われる自分も所詮は人の子なのだと、虚しくも思い知らされてしまう。


きさきが名付けたシャルロットと言う名は、わしにとってを意味する。我が皇女二人も同様に、その名が付されている。后が認めた『娘』である者を、拒絶することは出来ない」


男は、妻に向かって言葉をかける。

絵の中で微笑む少女に、優しく語りかけるように。


「お前が名を与えた『娘』を、お前と同じ名を持つ者を……わしが殺められる筈がなかろう——、なぁ、そうであろう?よ」


——あぁ、シャルロット。


彼は嗚咽のなかで床に崩れ落ち、妻の名を何度も、何度も呼び続けた——熱い涙を流しながら。


彼の妻は、ついの床で手を握りしめる彼に訴え続けた。そしてこれが、彼女の最期の言葉になった。


『愛する陛下……。娘たちのことを、そしてのことを……お願いいたします』

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