第96話 絆(前)


アリシアから届いたばかりの書簡を持ち、執務室の扉を開けたアドルフは落胆する。そこに皇太子の姿は無い。


——やはり執務室には戻っていない。


二日前にカイルが宮廷に戻ってから、彼に会ったのは一度きりだ。


セリーナをロレーヌに残したまま宮廷ここに戻った彼は、どれほど消沈していることかと案じるアドルフの想いを他所に、カイルの様子は穏やかだった。

皇后の葬儀に参列できなかった事を憂いてはいたが、すぐに表情を切り替え、淡々と政務の状況を確認していた。


だから……と言えば、言い訳になってしまう。だがてっきり、彼に伝わっていると思っていたのだ。


——殿下は、知らされていなかった。


治癒能力持ちのアリシアがロイスに同行し、セリーナの回復にあたった事をカイルは知らされていなかった。それをロイスから聞いたのは、つい先程のことだ。


セリーナは深傷を負った状態でロレーヌに放置された。彼がそう考えているならば、そのまま命を失ったと思うのが普通だ。

表向きには平静を保ちながら、どれ程の痛みや哀しみ、喪失感を抱え……そのとき何も出来なかった自分の不甲斐なさを憂いている事だろう。


「アドルフ。お前になら、安心して任せられる」


皇太子不在のあいだ政務を請け負っていた自分に、肩越しに伝えたカイルの眼差しが脳裏に浮かぶ。あの時、彼の言葉が持つ意味に気付くべきだった。


拝殿の礼装ではなく喪服に身を包んだ皇太子が、剣を握ったまま『鳳凰宮』に向かったと聞いた時にはゾワリと背筋が粟立った——とにかく、厭な予感がするのだ。


皇太子の『命懸けの恋』の結末が近付いている。

執務室の扉を勢いよく閉め、アドルフは歩き始めた足取りを次第に早める。数秒後には風を切り、回廊を駆け抜けていた。



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しんと静まりかえった拝殿に、皇帝の姿はなかった。

鳳凰宮付きの侍従たちが慌てて静止するのを気に留める事なく、カイルは拝殿を出て皇帝——彼の父親が居住する部屋に赴く。


「皇太子殿下?!どうなされましたか!お気を確かにッッ!!」


鞘を抜いた長剣を握り、鳳凰宮内を歩くのだから無理もない。

周囲は動揺し、或る者はカイルより先を走り、皇帝の居室に皇太子の奇行を知らせに向かったようだ。


力を込めて握る剣に青白い光がほとばしる。髪は逆立ち、身体中から発せられる稲妻は何者もそばに寄せ付けない。彼が歩く周囲に在る物が帯電し、ビリビリと鋭い音を立てながら青白く光る。視線の先を睨む双眸は氷よりも冷たく、激しい憎悪に満ちていた。


「殿下ッッ!?」


居室の扉は開いていた。扉番の侍従が制止しようとするも構わず中に進み、部屋の奥まで一気に歩く。何人かの侍従がこちらを向いて群がっている、激しく怯えながらも、彼らは君主を守るべく取り囲んでいるようだ。


「———どけ。一緒に斬られたいのか」


その場を動こうとしない彼らに向けて手をかざせば、軽く帯電した侍従らが呻き声をあげながら気絶し床に転がった。


侍従達に隠れて見えなかったが、王冠を戴くどころか夜着のままの男が背を向けて、そこに立ち尽くしている。


———!?


彼の目に飛び込んできた男の背中は痩せこけていて、カイルが知る堂々とした皇帝の体躯とは似ても似つかない。

カイルと同じ銀髪のはずがその髪に一切の艶は無く、整えらえずに乱れた白髪が背にかかるまで伸びていた。

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