第七章
第93話 皇太子の帰還
何も聴きたくない、見たくもない。
電流を通さない拘束具で能力を封じられ、縛られた腕がジリジリと痛むが、身じろぎをする気力さえも湧く事はなかった。
「殿下……俺だって、こんな仕打ちはツラいんです。でもせめて水くらい飲んでください、このままじゃ宮廷まで持ちません」
帝都に向かう馬車の中でロイスに水嚢を突き付けられるのを、カイルは顔を背けて拒んだ。
「気持ちはわかりますが、こんな情けない姿見せられたら俺だって失望しますよ!まさかこんな所でくたばるつもりじゃないでしょう?!生きて帰って、陛下に罵声の一つでも吐いてやらなきゃ……」
——セリーナはどこだ、彼女は、どうなった。
意識を取り戻したカイルの問いかけに、ロイスは視線を泳がせて口ごもった。
『あのまま、ロレーヌに……』
虚ろな目を下に向ければ、腕から胸、腹にかけてベットリと付着したものが乾き、着衣が黒ずんでいる。
セリーナが流した血だと思えば胸の奥がゾワリと泡立って、込み上げた生唾と吐き気を飲み込んだ。
皇帝に、罵声だと——?
何を、言ってる。
俺は——
ムラムラと沸き立つ怒りに呼吸が荒がり、肩が震える。セリーナを斬ったのは皇帝ではない。だが、気に入らないデルフィナを連れてくれば目の前で殺すと言ったのは奴だ。囚われて突き出されれば、結局同じことだった。
「ああ、その……。生きてれば、きっとまたいい事もありますよ」
生きていれば。
そうだ……
自分はここで尽きるわけにはいかない。
宮廷に戻る理由がある限り。
カイルは水嚢を睨みつけた。
途端に強烈な生気が蘇る。
その意図を察したロイスが口元に近づければ、水嚢の開口に食い付き、溢れ流れる水を
⭐︎
馬車は帝都に入る。街を歩く者達が喪服に身を包み、皆が言葉少なく俯いているのが車窓からも伺える。皇后の崩御からひと月近くも経つというのに、帝都中がまだ喪に服しているというのは、それが民間に知らされてからまだ日が浅いからだ。
「陛下がそうさせたんです、帝民にはまだ知らせるなと。あの人の考えはホント読めない」
皇后陛下を失った宮廷は……いや、宮廷だけでなく帝都全体が、すっぽりと深い霧に包まれているような陰鬱を纏う。
馬車の窓から呆然と外を眺めながら、カイルはゆっくりと睫毛を伏せた。
間もなく宮廷に戻る——そうすればすぐに、その
まぶたの奥に、花のような微笑みが映る。
カイル、あいしてる。
走馬灯の如く頭をよぎる残像と声は、数日のあいだろくに食事を摂らず朦朧とする意識が呼ぶものだろうか。
「体力が落ちてるでしょうから、着いたら先ずは休んでください」
ロイスの言葉が耳からすり抜ける。一刻も早く皇帝に会って想いを遂げたい。だがその前に皇后に——崩御した母に祈りを捧げ、花を手向けたいと……セリーナも、そう望んでいたのだから。
馬車の車窓には、無精髭を生やしてゲッソリと肩を落とし、覇気を失くした銀髪の男が霞のように映っていた。
『酷いお顔です、本当に。それに無精髭なんか生やすなんてっ。不潔っぽく見えますよ?』
カイルはフッと微笑む。
……そうだな、お前の言う通りだ。
これではまた叱られてしまうな。
「髭を、剃りたい」
「……っ、殿下?」
カイルの突然の呟きに、ロイスは目を丸くする。
「皇宮に着いたら、湯浴みを済ませて食事を摂る。アドルフと、妹にも会いたい。それから——」
背負っていた虚ろいが嘘のように、カイルはすっくと顔を上げる。そして凍てつく薄青い瞳の裏側に燃えたぎる炎の意思を隠し、ロイスを鋭く見据えた。
「俺も喪服を着る。用意するよう、侍従に伝えてくれ」
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色とりどりの花びらが舞う花畑の向こうに、青い海が見える。
花々の中に膝を埋めて座るセリーナは、澄み渡る空にゆっくりと舞い散る花びらを、ただ呆然と眺めていた。
ここはいったい、どこなのだろう。
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