第92話 慟哭(後)
「敏捷性は、まだ衰えていないようですね」
柔らかな栗毛を風に孕ませ、地に刺さった長剣を易々と引き抜く小柄な体躯の青年。口元には笑みを浮かべているが、その眼差しはひどく鋭い。
「ロイス……」
「
彼の体つきの割には大き過ぎるバスタード・ソード。片手で軽々と持ち上げれば、剣身の刃を撫でている。
「お前が何故ここに……!それに俺に剣を向けるとは、一体どう言うつもりだ!?」
「なに、ちょっと試しただけですよ。元気そうで何よりです」
カイルの動揺とは逆に、栗毛の青年は飄々と空を仰ぐ。
「いい〜ところですね〜。のんびりしてて」
目の端に、帝国軍の兵服を認める。それは次々と丘の下から湧き出て、カイルの背後に固まった。
「ロイス……。何も言わずにここを去れ。そして皇帝に伝えろ、皇太子は兵に追われ、自害して死んだと」
「残念ながらその命には従えません。第一そんな子供騙しの言い訳が、本気で通用するとは思ってないでしょう?それに……」
ロイスの青い目は冷たく微笑う。
「俺は今、皇帝陛下の遣いですから」
「お前っ……」
どうにかしてセリーナに伝えなければ——『逃げろ』と。
「……カイル」
その矢先だ。か細い声が風に乗って耳に届く。
事態を察したセリーナは立ち尽くし、持っていた白い花束を取り落とす。
とうとう
「セリーナ!!そこで何してる?!」
逃げなければ……
すぐにでも捕らえられてしまうのに。
美しい髪を風に靡かせたセリーナは立ち尽くし、カイルを茫然と見据えている。
塊の中にいた数名の兵士が彼女に駆け寄るのが見えた。心は逃げろ!と何度も叫ぶ。しかしこの状況で彼女が逃げ
セリーナに駆け寄ったなかの一人がワッと叫びながら前に出る。
それは、一瞬の出来事だった。
ザッ——…
鈍い音とともに兵が抜いた刃が空を斬る。
風の中に散らばる切断された長い髪。カイルの時間が、そこで止まる。
見開かれた青い目の中に映るのは、ゆっくりと崩れ堕ちるセリーナの身体だった。
ロイスが叫ぶ、
「おい待てっっ!?殺さずに捕らえろと言ったはずだ!!」
剣を振るった兵士が驚いて後ずさるも——もう、遅かった。
硬直してしまった肢体が、言うことを聞かない。動かない足を地面から引き剥がし、倒れた肢体に歩み寄る。そして地面にひざまずき、ぐったりと横たわるセリーナを抱え上げた。
「ご……ごめん、なさい……」
彼女の背中に充てがった手を上げると、生暖かい液体がベットリと付着していた。赤黒い血が流れ出るのを、なすすべもなく見守る。
「俺を見る前に兵士に気づいたはずだろう……何故……逃げなかった?」
浅い呼吸を繰り返し、セリーナは小さく首を振ってみせる。
「わかって、いたから……こうなる、こと」
「ン?」
「あなたが……ひとりで、去ってしまうって」
「何を言ってる、ずっと一緒だと、誓ったではないか」
「皇后、様に……お花を……あなたと、一緒に」
「もう、話すな……」
弱々しく腕を伸ばして、彼の頬を捉える手のひら。
カイル、あいしてる。
言葉にできない声を、吐息で放って。とても静かに微笑んで、セリーナは意識を手放した。
なんで……
なんで俺は、何も出来ないんだ。
何百という人の命を奪う力はあるのに。
たった一人の愛する人の命を、救う力が無いなんて。
アアアア———ッッッ……
腕の中で、薔薇色だった頬が、唇が……見る間に色を失っていく。激しい慟哭のなかで震えながら、か細い身体をただ力一杯に抱き締め続けた。
ややあった後、カイルの目がグッと見開き、そして虚になって閉ざされる——。
完全に覇気を失い、我を忘れ去ったカイルの背に肘鉄砲を喰らわせたロイスは立ち尽くし——気を失った彼の君主が血だらけの身体を守るように覆い被さるのを、憐れみを込めた目で見つめた。
「申し訳ありません、殿下……」
地面に伏した二人のそばで、摘まれたばかりの白いクレマチスの花束が、穏やかな風に揺れていた。
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