第91話 かり初めの夜(中)(⭐︎)
天蓋の付いた、大きなベッドの真ん中に——。
あぐらを組むカイルときちんと正座したセリーナが向かい合わせに座っている。
それはまるで初心者じみた恋人同士が初めて交わす挨拶のように、とてもぎこちなくて。身体中を巡る酔いの心地良さのなかで、胸を叩く鼓動ばかりが耳に届く。
膝の上に置いた両手にぐっと力を込めれば、柔らかな寝具に踝が沈んだ。
僅かに首を傾げたカイルの双眸は、彼の『妻』を捉えて離さない。
「あの……どうか、しましたか……?」
おずおずと問いかけると、彼は何か物言いたげに口元を緩ませるが、言葉を飲み込み目を伏せた。
この奇妙な沈黙は、この場所に下ろされてからずっと続いている。いつもと変わらない強引さで組み敷かれるのかと思えば、消沈しきった様子で座り込むのだから……訳がわからず、体の火照りが行き場を失ってしまう。
「やっぱり飲みすぎたのでは……。もう……お休みになられますか?」
冷静な口がそう言い放つが、心はそれを拒んでいる。そんなチグハグな感覚は、セリーナを余計に戸惑わせた。
「いや、違うんだ。すまないが……少しだけ待ってもらえないか」
カイルは額に手を当てて目を閉じ、考え込むような素振りをする。このタイミングで「待て」だなんて。その意図は何なのか?
セリーナは不安になる、また自分の気付かないところで彼の気持ちを萎えさせてしまったのではないか。『おいで』を、拒んだこと……?それとも自分から首に腕を回したのがいけなかったのか。
カイルの想いは、セリーナのそれとは全く別の処にあった。
強引に抱え上げた華奢な体は羽根のように軽かった。それはとても儚くて、僅かな風でも吹けば簡単に飛んで行ってしまいそうだ。
アラミスとの晩餐のお陰でぼやけていた『脅威』が浮き彫りになり、鋭い刃となってカイルの思考を貫いた。
彼が言ったことは正当だ。皇帝の追手に捉えられれば、二人の未来はそこで絶たれてしまう。
柔らかな白い羽毛が黒々とした靄にのまれる様を、カイルは目の奥に見てしまったのだ。
目の前にいるのは、
いつ失うかわからない……だけど狂おしいほどに愛しく、心の底から求め続ける存在。
もしも彼女を失ったら……自分は一体、どうなってしまうのだろう?
もしも皇帝が彼女を手に掛けたなら。
自制心を失った自分は、その場で何をするかわからない。
「…………」
ふとそんな事を思えば、一抹の懸念がドッと押し寄せて。彼には珍しく、内心をひどく取り乱していた。
慣れない酒を飲ませてしまったせいだろうが、セリーナは自分から細い腕を絡ませてきた。深いグリーンの瞳を熱く潤ませ、火照った顔で
その眼差しを想えば、どうしようもない愛しさと
「カイル……あの……あの、ね」
沈黙の空気を纏うことにたまりかねたセリーナは、顔を上げて微笑んで見せた。
カイルがいつもと違うから。理由はわからないけれど、とても不安そうに見えるから。何か言葉を伝えたら、その気持ちが少しは紛れるかも知れないと思って。
セリーナは白くか細い手を伸ばす。
薬指にはめられたリングが、部屋に灯された僅かな薄明かりの下でキラリと輝いた。
「私……。あなたの
あぐらをかき、着衣のボタンを広く開けた彼の胸元は大きくはだけて、造形の美しい体躯を覗かせている。
無防備に露出した彼の鎖骨を、指でそっとなぞった。
「まっすぐで、綺麗だから」
アラミスが言った言葉がセリーナの胸に刺さる。
どこに居ようが、カイルは紛れもなく帝国の皇太子だ。帝国にとってたった一人の後継者で、とてもとても大切で大きな存在だ。
セリーナを見つめる双眸は昏い部屋の中で深い蒼色に見えた。この先それらはどんな未来を映すのか。
彼の下に広がる世界、こんなにちっぽけな自分は——そこにはもういないだろう。
たとえ永遠の愛を誓っても、それは
そんなことは、もうとっくにわかっていた。
ただ認めたくなかっただけ……それを認めてしまったら、今の自分は壊れてしまいそうで。
軽い目眩と深い呼吸は先ほどから変わらずカイルを求め続けている。この僅かな時間でさえ、もどかしいほどに。未来の無い限られた時間だからこそ、ずっと触れていたい、その存在を感じていたい。
震えながら伸ばした手首を取られ、引き寄せられて広い胸に抱かれる——もう何度もそうされているのに、キュンと刺される胸の痛みにいつまでも慣れる事はない。
「セリーナ」
頭の上から艶のある声が降ってくる。今の自分は、もうそれだけですっかり打ちのめされてしまう。大好きな声に名前を呼ばれることの幸せを知ってしまったから。
「……お前を失うのが
思いがけないその言葉は、胸を叩く鼓動のなかでもしっかりと耳に届いて、セリーナは何度かまばたきを繰り返す。
カイルの口からこんな弱気なセリフを聞いたのは初めてだ。
「私はずっと、ここにいますよ?」
目の前にある彼の腕を抱きしめてみるも、気休めにもならない言葉しか出てこないことに自分でも情けなくなる。カイルはフッと寂しげに笑い、そして次の言葉が彼の喉の奥から絞り出された。
「今夜、俺は『禁忌』を捨てようと思う。お前はもう白の侍女ではない、俺の『妻』だ」
『禁忌』——それは往年、皇太子に課せられ続けた重く苦しい“
《皇太子の子を懐妊する『禁忌』を避けるため、侍女と
無理強いするつもりも、焦って恐怖を与えるつもりもなかった。だがいつ失うかも知れないのであればどうしても……残された時間のなかで、自分の想いを刻みつけておきたい。それは己の、とても身勝手な想いだとしても。
「……カイ、ル……?」
彼の瞳は、嵐のような激しさで揺れている。
その言葉の意味を呑み込めば、にわかに押し寄せた驚きと緊張とで心がいっぱいになった。
それでも……相変わらずふわふわした意識のなかで疼く体は、思考を深める事よりも途方なく彼を欲していた。カイルの胸に頬を押し当てて、彼の着衣をギュッと握りしめる。体中をくまなく愛される悦びを教えたのは、紛れもなく彼だ。
「これが愛と呼べるものなのかわからない、愛がどんなものかも。だが……」
細い体を抱く腕に力が込められる。彼女への想いは溢れて止まらない。これが愛でなければ、一体何だと言うのだろう?
「お前を愛してる」
アイシテル。
それはなんと儚く尊く、美しい言葉だろう。
互いの腕を緩めて見つめれば、不安と切なさに揺れる瞳に翻弄されそうになる。
「……カイル、ぁぁ」
愛してる。
「私、もっ……」
あなたを、愛しています。
甘く掠れる声が、喉の奥から迫り上がる苦しさに呑まれてしまう——…
気付けば唇に深く割り入って来た熱い吐息と舌先に、呼吸ごと奪われていた。
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