第91話 かり初めの夜(前)(⭐︎)


「はぁ………っ」


(なんだか、疲れました……)


セリーナは寝室のベッドに倒れ込む。

ローブデコルテを脱いでコルセットを外し、編み込まれた髪をほどけば、全ての締め付けから解放された心と身体が芯から緩んだ。


立派な天蓋で覆われたベッドの上には、繊細なレースがふんだんに使われた夜着と、光沢のある上質なシルクのガウンがきちんと置かれていて。


これは晩餐の支度を手伝ってくれたメイドたちの気遣いだと思えば、自然と頬が緩んだ。


両開きの寝室の扉を開け放てば、既に着替えを済ませたカイルがバルコニーに立って空を見上げていた。

礼服を脱いだ彼もゆるい着衣の胸元をくつろがせ、ゆったりと落ち着いているように見える。


セリーナの気配に気付けば振り返り、


「……いい夜だ」



⭐︎



バルコニーのそばのテーブルには、鈍色にびいろのワインボトルと二脚のグラスが置かれている。

他にもキャンドルライト、薄い輪切りのレモンが浮かぶピッチャーの水と小さなクリスタルグラスが二つ、チョコレートに、綺麗な形にカットされたフルーツの盛り合わせ……。


「……豪華、ですね?!」

「ああ。レイバルトの心遣いだろう」


カイルはテーブル脇のスツールに腰掛けると二つのグラスを並べ、片手で器用にワインをぎ始めた。


「えっ、まだ飲むのですか?」

「ン……?」

「さっき、あんなに飲んでたのにっ」

「たいして飲んでいない」


注ぎ終えたグラスを一つ掲げて、セリーナに目配せをする。


(——私にも、飲めと?!?!)


躊躇いながら席に着き、おもむろにワイングラスを手に持ってみる。見上げればカイルの満足げな表情かおがあって。


(これは、拒否出来ないですね)


改めて、二つのグラスの縁を合わせる……


「乾杯」


「私、ワインを飲むの初めてで……。酔ってしまいそうなので、少しだけ……」


鮮やかなルビーレッドの液体を口に含ませると、とろりとした感触が舌に心地よく、ほのかな甘みと深い味わいが口の中いっぱいに広がってゆく。


「美味しい……」


思わず漏れてしまった言葉に、カイルは僅かに頬を緩ませる。


「それは、良かった」


「あの……さっきはごめんなさい。私……公爵様を、怒らせてしまいました」


「お前は自分の気持ちに正直だっただけだ。気にすることはない」


「私、いつもこうなんです。考えが、浅いと言うか……行動に配慮がないと言うか……。気が付けば人を困らせていたり、怒らせていたり……もっと思慮深くなりたいって思うのに、うまくいかなくて」


「自分が思案するほど、相手は気に留めていないものだぞ?」


既に空になった自分のグラスに、カイルは再び赤い液体を注ぎ込む。自分のをついだあと、セリーナのグラスにも瓶口を向ける——まだ全然減っていないのに!


「待ってくださいっ……も、もう少しだけ、飲みますから……」


(カイルは、お酒勧めるの上手ですね?!飲みすぎないようにしなくちゃ……)


ふたくち、みくち。


酸味が和らいだ液体は甘味を増したように思え、それは喉の奥に静かに流れ落ちて身体中に染み渡る。

そのうち意識がふわふわ軽くなり、心地良い愉悦で満たされていく。


「なんだ、もう酔ったのか?」

「顔がっ……ポカポカしてます……」


カイルは頬杖をつきながら、セリーナがワタワタする様子を面白そうに見てクスッと笑った。


「やっぱりお前は可愛いな」

「か、揶揄うの、やめてください……っ」


「セリーナ、おいで?」


そう言ってカイルは腕を広げる。こうして甘い声で呼ばれては、体温が高い彼の腕の中に抱かれるのだ。


「いや……です」

「?」


「だって……」


——いつにも増してっ……あなたが、キラキラして見えるから……。


胸を叩く鼓動が強くなり、ぞわりと身体の奥底が疼く。これは酔いのせいだ。


「あなたは、ずるいです。そんなふうにされたら、私が拒否出来ないって、わかってて……」


「拒否したいのか?」

「そ、そうじゃないです、けどっ……」


困った顔をしてうつむくセリーナの頬が紅い。

酔っているからなのか、恥じらいなのか?どちらにしても——


(可愛い……!)


「ああ、俺も久々に飲んだから、酔いが回ったようだ」

「ぇ……そんなふうには、見えませんけど……」

「お前に拒否されたし、若干凹んだからもう休もうかな」


「拒否って、そんな……っ。ではもう、お休みに、なられますか……?」


その時、自分は一体、どんな顔をしていたのだろう。

それから少しの沈黙があった。互いに顔を見合わせるが、セリーナはソワソワと落ち着かない。


「今、休むと言ったのは嘘だ」

「??」


「お前の、その顔つきに欲情した。それで、ちょっといじめてみたくなった」


———っっっ!!


カイルを欲情させるほど、自分はそんなにいやらしい顔をしていたのだろうか。


「意地悪……ですねっ」

「ああ、意地悪だ」


スツールを離れたカイルに、勢いよく抱え上げられた。


「え……っ、待って……カイル?!」


驚いて見上げれば、その視線は彼が向かう場所に向けられている。

長い睫毛が影を落とす青い瞳が凛々しく見えて、火照った頬が、更に熱くなってしまう。


ふわふわとした感覚はおさまるどころか、徐々に強くなっていて……。


「ゃ……っ」


小さく吐いた言葉とは裏腹に、彼を求める欲求が心の底からせり上がり——ゆっくりと深く、熱くなる呼吸の中ですがるように、カイルの首に腕を絡ませていた。

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