第90話 『生きて』そばに


——特別な理由。


「何か……心当たりは無いのか?」


カイルの真剣な問いかけに、アラミスは二十年という歳月の向こう側に想いを馳せる。


「殿下。わたしもその頃はまだ十歳にも満たない子供だ。仮に何か見たり聴いたりしていたとしても、おぼろで曖昧な記憶でしかない。そもそも殿下は——叔母上がなぜ帰郷の帰りに行方不明になったか、考えた事がありますか?」


「いや、……そこまでは」


アラミスの瞳に湧き上がる、憎悪の念。

そもそもグレンバーン公爵家の一族は、オルデンシア皇族家の事を快く思っていない。むしろアラミスのように、現皇帝を恨んでいる者がほとんどだ。


「帰りたくなかったのでしょう……宮廷という牢獄に。それで花を摘みに行くと言って馬車を抜け出し、グレンバーン家に戻ろうとした。わたしの推測だが、叔母上はずっと逃れたかったのです。皇帝の手の内から……!」


アラミスの表情が憎しみで歪むのを、セリーナは胸が締め付けられる思いで見つめていた。


皇帝陛下がどんな人物なのか知らない。いつか流れ聴いた噂は確かに人の恐怖心を煽るものだ。たとえそれが真実だとしても、皇后陛下は、本当に皆が言うような『悲劇の皇后』なのだろうか——。


ティアローズ王女の部屋に掲げられた、若き日の皇后の肖像画。

そこに描かれた彼女の笑顔が、セリーナの心を納得させないのだ。


(二十いくつも年の離れた方とのご結婚、それは、皇后様だって、初めは戸惑われたでしょうけれど……)


セリーナは、薬指の指輪に手のひらを重ねる。


(皇帝陛下からの『誓い』をいただいて、きっと、気付かれたと思います)


二連にも成る誓いを込めた陛下の想いと、愛情の深さを。


「あの……っ」


沈黙を貫いていたセリーナが急に言葉を放ったので、カイルとアラミスが驚いて視線を向けた。


「アラミス様は……皇后様がお幸せではないと、皇后様ご自身から聞かれたのですか?」


「……セリーナ」

「カイルっ、あなただって知っているでしょう……ティアローズ様のお部屋にある、肖像画のことを」


皇帝陛下には会った事もないけれど。

あの絵を愛おしげに眺める陛下の優しい瞳を、ありありと想像する事ができる——。


『とても大切で、大好きな』妻の笑顔を、皇帝陛下はあの絵の中にとどめておきたかったのではないか。


二連の『誓いのリング』は、皇帝陛下から皇后陛下に贈られた愛情の証。

輝く指輪とともに描かれた、皇后の幸せに溢れた笑顔はおそらく——


「アラミス様はそんな風に仰いますが……私には……皇帝陛下は皇后様のことを、とても深い愛で包んでいらっしゃると、思えてならなくて……」


——カイルが自分に、そうしてくれているように。


「セリーナ。幾ら君でも根拠のない発言をすれば、わたしだって捨ておけない事があるのだぞ?」


「根拠が無いのは、アラミス様のお話も同じです。何が真実かなんて、皇帝陛下と皇后陛下お二人にしかわからないのです。だから……皇后様が逃げ出そうとしたなんて……皇后様が不幸せだなんて、思わないであげて欲しいんです」


「君に何がわかると言うのだ?!あのに大切な人を奪われた、我ら一族の想いなど……!」


「それは……アラミス様の『想い』ですよね?皇帝陛下と皇后様の想いはきっと、別のところにっ……」


「セリーナ、もういい。やめるんだ」


——カイル?!


言葉を途中で遮られる。見れば公爵が落胆に息を荒げて……怒りを堪えているのか目を見開き、宙を睨んでいる。


——あれ以上、言葉を続けていたらっっ


「アラミス、すまなかった。ここまで踏み込んだ話をするつもりは無かったのだ。皇帝に対する気持ちは、おそらく皆が同じだ。息子のわたしでさえ、何度この手で殺めてやろうと思ったか知れない。母上も——例外ではないと思うが、セリーナは同じ女性として母上の心に寄り添ってくれようとしたのだ。その気持ちに免じて、先程の発言を許してやって欲しい」


カイルに、謝らせてしまった……!


ドッと後悔の念が押し寄せる。初めに諭されていたのにもかかわらず、調子に乗って言葉を続けてしまったのだ。


「も……っ、申し訳ありません、アラミス様……私、っ」


「あなた方ときたら、本当に。どこまで仲が良いのだか」


アラミスはフッと微笑み、燃えるような赤髪を掻き上げながら顔を上げる。


「しかし駆け落ちだなんて……皇帝が許すはずがなかろう?!すぐに追手があなたがたの所在を突き止めるでしょう」


「それは……わかっている。だがわたしは、僅かであっても希望を持ちたい。母上を救ったのがセリーナの両親ならば、皇帝の恩赦を受ける事ができるかも知れない。その僅かな望みに賭けるしか、もう道は無いのだ」


「フッ、皇帝の下命に従って何百もの人間を殺めたあなたが、まだそんな戯言を!?皇帝やつは狂ってる、あなたが一番良く理解わかっているはずだ。皇帝に捕らえられれば、間違いなくセリーナは……っ」


アラミスは言葉を濁した。消沈した様子でうつむくセリーナを見やる彼の瞳には、憐れみが込められていた。


「……こんな危険な場所に留まらず、一刻も早く逃げる事だ。皇帝の手を逃れ、小さな村を点々としながら細々と生きるのです」


アラミスの声は震えていた。皇帝への強い怒り、助けを求める彼らに十分な事が出来ないもどかしさ。そして無力な自分に対する失望、二人に向けられた、深い同情。


「——ッ。すっかり取り乱してしまったな。少し肩の力を抜きましょう」


アラミスは自分自身を諭すように言い——ティーカップの中の冷めた液体をグイッと喉に流し込んだ。


「わたしには後継こうけいがいませんから、グレンバーン公爵家はわたしの代で途絶えるでしょう」


アラミスの突然の告白に、驚いたセリーナが顔を上げる。


「これまで多くの女性と関係を持ったが、懐妊の声は聞かなかった。愛情の加護を受けていながら、わたしはを持ち合わせていないのかも知れない。それともこれは、寂しい想いばかりをさせながら死なせてしまった妻への『贖罪』なのかも知れないな……」


「この先もずっと、独りきりで生きるつもりなのか?」


「殿下がわたしの立場だったら。もしも愛する伴侶を失ったら、新しい相手を迎えますか?」


「………」


カイルは言葉を詰まらせ、おもむろにセリーナを見やる。

アラミスが誰に向けるわけでもなく、言葉をつぶやいた。


「愛する者が『生きて』そばにいるというのは……何よりも、尊いことだよ?」



⭐︎



晩餐の席を立つ頃、外はすっかり宵の声が聞こえていた。レイバルトが皆に酒の席を勧めるも、


「ははッ!これ以上夫婦の夜の邪魔はしませんよ。今夜はどうぞユックリ寛いでください……」


アラミスは二人に手を振り、爽やかに笑って見せる。


レイバルトに先導されながら部屋へと歩くも、セリーナは先程のアラミスの発言がすっかり心に染み付いてしまった。


—— わたしには後継がいませんから、グレンバーン家はわたしの代で途絶えるでしょう。


公爵は子供を授からなかったばかりか、最愛の妻を失ってしまったのだ。その哀しい運命さだめを『妻への贖罪』と言ったアラミスの想いが、とてもとても、切なくて。


グレンバーン家が途絶えてしまう、もしもそんな事になったら。

この美しい城は、庭は……どうなってしまうのだろう??


「夫婦の夜、か。相変わらずキザで含みを持たせた物言いをする奴だな」


一歩前を歩くカイルが肩越しにセリーナを見遣り、頬を緩める。



——夫婦の、夜。



(そ、そう言えば……っっっ)

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