第28話 覚えてない
*
目を開けると、霞がかった視界が徐々にすっきりとし、折り上げられた白い天井が見えた。
隣、その隣と清潔なシーツが敷かれたベッドが並んでいて、ベッドサイドの大きな窓という窓に白いシフォンのカーテンがかかり、日の光を柔らかに採り込んでいる。
医務室。
すっきりと清潔なその広い部屋には、セリーナの他に人影はなく、しんと静まりかえる空気の中に、カーテンが風で擦れあう音が微かに耳に届くばかり。
目覚めてからしばらく、自分がなぜここにいるのかさえ思考の内側に入って来なかった。
ただ呆然と、天井を見上げながら深く、深く、呼吸を繰り返す。
……呼吸。
そういえば、呼吸が楽に出来ている。
ふとその事に気が付いて、そこからようやく記憶が湧き上がる。
……自分は何をして、なぜここにいるのだろう?
ピアノの旋律、賛美歌を歌ったこと、いつまでもこのままで居たいと思ったこと。
そしてそのあと、苦しくなって……。
心配そうなカイルの顔。それに彼は、とても驚いていた。
なぜ、驚いていたのだっけ……?
自分はあろうことか!意識を失ってしまうなんて、どれだけカイルに迷惑をかけたのだろう??
「覚えて、ない……」
そういえば、呼吸が楽になっている!
自分から手を伸ばしてカイルを求めた事が、もやがかかった頭の中に少しずつ浮かび上がって来る。
(まさか、私から殿下に、迫って———?!)
だが事の重大さに気がつき、今度はゾワゾワと血の気が引いていく。
「どうしよう……!」
(私……あろうことか皇太子殿下に、とんでもない失態を、しでかしたかも知れない……っ)
「薬じゃ」
だがセリーナのそんな心配は、様子を伺いに来たガンダルフの一言ですっかり無駄になる。
「今、楽なのは、薬の効果じゃ」
「……へ?」
「ここに運ばれたあと、わたしがすぐに服用させた」
「そう、でしたか……よく、思い出せないんです。でも良かった……!呼吸が楽になっているので、私、てっきり……っ」
心からの安堵に、胸を撫で下ろす。
「それにしても、薬が切れるまで侍女を連れて夜遊びとは。皇太子殿下も、何を考えておられるのやら」
「よ、夜遊びと言うようなものではっ」
「まあ大事を取って、今日は安静にしていなさい。薬が切れるとまた発作が起きるかも知れん」
「でも、いつまでも休んでばかりでは……。お昼から、仕事に戻ってもいいでしょうか?」
ふと見遣ると、ベッドサイドテーブルに、ブルーのリボンが掛かった小袋が置かれている。
(クッキーの袋、ちゃんと持って帰ってくださったのね)
そっと手に取りリボンをほどけば、甘いバターの香りが漂った。
セリーナは、柔らかな表情でそれを見つめる。
(なんだかもったいなくて、食べられないですね……)
バタン、と閉じた扉の向こうで、ガンダルフはボソリと呟いた。
「彼女は妙に安堵したようだが。わたしは、
昨夜、医務室に駆けつけたガンダルフに、カイルが放ったセリフはこうだ。
『クリストフ殿、ご就寝中のところを申し訳ありません。呼吸困難は一時的で、すぐに落ち着きました』
「ふむ……何があったかは、皇太子殿下のみぞ知る、だ」
*
「さあ、休んでいたぶん、お仕事頑張らなくちゃ!」
(お薬がよく効いて?今日はとっても身体が楽ですっ)
すっかり元気を取り戻したセリーナは、部屋で身支度を整えたあと、いそいそと回廊を渡っている。
大量のティーセットを『慶仁の間』に運ばねばならないのだ。
宮廷内は、一ヶ月後に迫った皇帝陛下生誕祭の準備で色めきだっている。
他の侍女達はすでに会場で動いているので、遅れを取った自分の足を少し急かせながら歩く。
(そういえば昨日の夜も、殿下とこの場所を通ったのだわ)
昼と夜の雰囲気の違いといったら。
光差す回廊はこんなにも美しいのに、誰もいない夜のそれは黒々として恐ろしかった。
(殿下が手を引いてくれていたから……)
カイルの背中を思い浮かべると、ふっと心が柔らぐ。
セリーナは立ち止まり、蒼空が広がる窓の外に向かって大きく深呼吸をした。
(風が気持ちいい!)
ふわり、と、その風にまみれてムスクの香りが漂った気がした。
(私ったら、殿下のことを考え過ぎて、鼻まで変になってしまったのかしら)
後ろを振り返ると———。
「きゃあっ!」
「シッ、叫ぶな……ッ」
黒い礼装の胸元が目の前に見えて、見上げる間もなく手を引かれ、物陰に連れ込まれて———。
「こっ、皇太子様?!」
礼装の広い胸と壁の間に囲まれて、恐る恐る顔を上げる。
片肘を壁に貼り付けて、淡いブルーの眼差しがセリーナを真上から見下ろしていた。
(お顔、近い……っ)
光を背にした彼の顔は影になり、漆黒の礼装と冷たい青色の目のせいで、少し怖くも見える。
その威圧感に圧倒されて、言葉が出ない。
「………あ、の」
ドクン、ドクンと鼓動が脈打つ。
(こんなところを、誰かに見られたらっ)
「手短に言うが」
「は……い」
「お前の、昨日の
カイルは白い手袋をはめた拳を口元に当てて、少し照れたように視線を逸らせた。
「……、あれって?」
「
(えっ、えっ、お料理?!それとも歌のこと???)
「???」
セリーナは僅かに首をかしげて、キョトンと目をまるくする。
———彼女は、覚えていないのか?!
「私も、殿下にお会いしたら、お詫びをしようと思っていたんです。たくさんご迷惑を、おかけしたので……」
(迷惑をかけたとか詫びるとか、そういう話じゃなくて!)
グッ。
指先で、顎を持ち上げられた。
「もう、苦しくないか?」
カイルの真剣な目がじっと見つめてくる。
「……苦しく、ない、です」
少しの沈黙があり、
「……そうか」
つぶやいた声のあと、きれいな顔が突然近づいて——互いの唇が重なりそうになったとき、一呼吸ののち、スッと引かれた。
カイルの身体が離れ、セリーナは気が抜けたように脱力する……。
「明日の宵刻、寝所で待ってる、業務外でだ。守衛は払っておく」
たたみかけるようにそう言うと、カイルは肩を
「ぇ………」
身体の力が抜けてゆき、両手で口元を覆う。
(今のは、…………っ!心臓が、とまるかと思いました……)
「それに、業務外で、待ってるって、どう言うこと……???」
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