第28話 覚えてない







目を開けると、霞がかった視界が徐々にすっきりとし、折り上げられた白い天井が見えた。


隣、その隣と清潔なシーツが敷かれたベッドが並んでいて、ベッドサイドの大きな窓という窓に白いシフォンのカーテンがかかり、日の光を柔らかに採り込んでいる。


 医務室。


すっきりと清潔なその広い部屋には、セリーナの他に人影はなく、しんと静まりかえる空気の中に、カーテンが風で擦れあう音が微かに耳に届くばかり。


目覚めてからしばらく、自分がなぜここにいるのかさえ思考の内側に入って来なかった。

ただ呆然と、天井を見上げながら深く、深く、呼吸を繰り返す。


……呼吸。


そういえば、呼吸が楽に出来ている。

ふとその事に気が付いて、そこからようやく記憶が湧き上がる。


……自分は何をして、なぜここにいるのだろう?


ピアノの旋律、賛美歌を歌ったこと、いつまでもこのままで居たいと思ったこと。

そしてそのあと、苦しくなって……。


心配そうなカイルの顔。それに彼は、とても驚いていた。


なぜ、驚いていたのだっけ……?


自分はあろうことか!意識を失ってしまうなんて、どれだけカイルに迷惑をかけたのだろう??



「覚えて、ない……」



そういえば、呼吸が楽になっている!

自分から手を伸ばしてカイルを求めた事が、もやがかかった頭の中に少しずつ浮かび上がって来る。



(まさか、私から殿下に、迫って———?!)



し、かあああっ、と顔が熱くなった。

だが事の重大さに気がつき、今度はゾワゾワと血の気が引いていく。


「どうしよう……!」


(私……あろうことか皇太子殿下に、とんでもない失態を、しでかしたかも知れない……っ)







「薬じゃ」


だがセリーナのそんな心配は、様子を伺いに来たガンダルフの一言ですっかり無駄になる。


「今、楽なのは、薬の効果じゃ」

「……へ?」


「ここに運ばれたあと、わたしがすぐに服用させた」

「そう、でしたか……よく、思い出せないんです。でも良かった……!呼吸が楽になっているので、私、てっきり……っ」


心からの安堵に、胸を撫で下ろす。


「それにしても、薬が切れるまで侍女を連れて夜遊びとは。皇太子殿下も、何を考えておられるのやら」

「よ、夜遊びと言うようなものではっ」

「まあ大事を取って、今日は安静にしていなさい。薬が切れるとまた発作が起きるかも知れん」

「でも、いつまでも休んでばかりでは……。お昼から、仕事に戻ってもいいでしょうか?」


ふと見遣ると、ベッドサイドテーブルに、ブルーのリボンが掛かった小袋が置かれている。


(クッキーの袋、ちゃんと持って帰ってくださったのね)


そっと手に取りリボンをほどけば、甘いバターの香りが漂った。

セリーナは、柔らかな表情でそれを見つめる。


(なんだかもったいなくて、食べられないですね……)





バタン、と閉じた扉の向こうで、ガンダルフはボソリと呟いた。


「彼女は妙に安堵したようだが。わたしは、と、言っただけじゃ……」

 

昨夜、医務室に駆けつけたガンダルフに、カイルが放ったセリフはこうだ。


『クリストフ殿、ご就寝中のところを申し訳ありません。呼吸困難は一時的で、すぐに落ち着きました』


「ふむ……何があったかは、皇太子殿下のみぞ知る、だ」







「さあ、休んでいたぶん、お仕事頑張らなくちゃ!」


(お薬がよく効いて?今日はとっても身体が楽ですっ)


すっかり元気を取り戻したセリーナは、部屋で身支度を整えたあと、いそいそと回廊を渡っている。

大量のティーセットを『慶仁の間』に運ばねばならないのだ。


宮廷内は、一ヶ月後に迫った皇帝陛下生誕祭の準備で色めきだっている。

他の侍女達はすでに会場で動いているので、遅れを取った自分の足を少し急かせながら歩く。


(そういえば昨日の夜も、殿下とこの場所を通ったのだわ)


昼と夜の雰囲気の違いといったら。

光差す回廊はこんなにも美しいのに、誰もいない夜のそれは黒々として恐ろしかった。


(殿下が手を引いてくれていたから……)


カイルの背中を思い浮かべると、ふっと心が柔らぐ。

セリーナは立ち止まり、蒼空が広がる窓の外に向かって大きく深呼吸をした。


(風が気持ちいい!)



ふわり、と、その風にまみれてムスクの香りが漂った気がした。


(私ったら、殿下のことを考え過ぎて、鼻まで変になってしまったのかしら)


後ろを振り返ると———。


「きゃあっ!」

「シッ、叫ぶな……ッ」


黒い礼装の胸元が目の前に見えて、見上げる間もなく手を引かれ、物陰に連れ込まれて———。


「こっ、皇太子様?!」


礼装の広い胸と壁の間に囲まれて、恐る恐る顔を上げる。

片肘を壁に貼り付けて、淡いブルーの眼差しがセリーナを真上から見下ろしていた。


(お顔、近い……っ)


光を背にした彼の顔は影になり、漆黒の礼装と冷たい青色の目のせいで、少し怖くも見える。

その威圧感に圧倒されて、言葉が出ない。


「………あ、の」


ドクン、ドクンと鼓動が脈打つ。


(こんなところを、誰かに見られたらっ)


「手短に言うが」

「は……い」


「お前の、昨日のは、」


カイルは白い手袋をはめた拳を口元に当てて、少し照れたように視線を逸らせた。


「……、あれって?」

は……だ。いったい、どういう意図で、ッ」


(えっ、えっ、お料理?!それとも歌のこと???)


「???」


セリーナは僅かに首をかしげて、キョトンと目をまるくする。



———彼女は、覚えていないのか?!



「私も、殿下にお会いしたら、お詫びをしようと思っていたんです。たくさんご迷惑を、おかけしたので……」


(迷惑をかけたとか詫びるとか、そういう話じゃなくて!)


 グッ。


指先で、顎を持ち上げられた。


「もう、苦しくないか?」


カイルの真剣な目がじっと見つめてくる。


「……苦しく、ない、です」


少しの沈黙があり、


「……そうか」


つぶやいた声のあと、きれいな顔が突然近づいて——互いの唇が重なりそうになったとき、一呼吸ののち、スッと引かれた。

カイルの身体が離れ、セリーナは気が抜けたように脱力する……。


「明日の宵刻、寝所で待ってる、業務外でだ。守衛は払っておく」


たたみかけるようにそう言うと、カイルは肩をひるがえし、矢のような速さで回廊の先へと消えてしまった——彼の、香りを残して。


「ぇ………」


身体の力が抜けてゆき、両手で口元を覆う。


(今のは、…………っ!心臓が、とまるかと思いました……)


「それに、業務外で、待ってるって、どう言うこと……???」

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