同じ空の下で

中村ハル

同じ空の下で

 スマホのコール音で目を覚ました。

 正確にいえば、起こされたのだ。レトロなアナログ時計をわざわざ確認して、軽く舌打ちをしてからスマホを手に取る。

 表示を見なくたって、誰かはわかる。目一杯不機嫌な声を装って通話を繋ぐと、まだ眠たげな声がスピーカーから漏れ出した。

「起きてる?」

「だから電話に出たんじゃないか」

「だよね、知ってた」

「ついでに言うと、起きてたんじゃない。起こされたんだ、この電話に」

 最後の言葉をわざと強めに口にしてみたが、どうせ聞いていないに違いない。

「ねえ、空みた?」

「聞いてたのかよ、起こされたんだ、お前の電話に」

「じゃあ、見てみてよ」

「どうして。雪でも降ってるのか」

 半袖のシャツの腕を掻きつつ、投げやりにそう言うと、なぜだか電話の向こうの声は照れ臭そうに笑った。

「そうじゃないよ。空がさ、変な色してるんだ」

 僕は眉を顰めて遮光カーテンに視線を向けた。おざなりに閉めた隙間から朝の陽光が差し込み、せっかくの遮光機能を台無しにしている。

「よく晴れてるみたいだけど?」

「雨だなんて言ってない。話聞いてた?」

 呆れた声が言い放つのにカチンときたが、ぐっと堪える。本当ならスマホを放り投げて、もう一度眠りに落ちたい。

 だが、ここは我慢だ。なんせ、電話の相手とは、もう数ヶ月会っていない。流行り病が世を席巻しているおかげで、外出もままならないのだから仕方がない。

 初めの頃はやれ電話だリモートだと、頻繁に行っていた画面越しの逢瀬も、いつしか途切れて久しかった。人は慣れる生き物だ。退屈にも不自由にも、ひとりでいることにも。

 しかしそれには個人差があり、電話の向こうの人物は、一向に孤独には慣れぬらしい。

「ねえ、聞いてる?」

「聞いてる聞いてる」

 あからさまな僕の言葉に、ふん、と鼻息を漏らして、相手は仕切り直すように一つ呼吸をおく。

「で、空が何だって」

「変な色してるんだ」

「黄砂でも飛んでるんじゃないのか」

「違うよ。朝起きたら、空が見たことない色していたんだ」

「へえ、見たことない色って、何色」

「何色だと思う?」

 にやにやとしているのが目に浮かぶような声が、僕の耳をくすぐる。

「めんどくさいな、言えよ」

「当ててみてよ」

 ほら、と楽しげに忍び笑いを漏らして、電話の向こうは沈黙する。

「……赤?」

「夕焼けの色ですー」

「じゃあ、黒」

「土砂降りの日ってそんな感じじゃない?」

「黄色」

「それこそ黄砂」

「ピンク、紫、オレンジ」

「一度はズルい。でも、どれも外れ。夏の夕暮れの色だ」

「だったら、白」

「雪が降るね」

 僕はぐるりと目を回した。他に色などあっただろうか。

「紺にグレーに、薔薇色、黄金に白銀、青にセピアも見たことある色でしょ」

 次々と歌うように色が流れる。

 僕はここに至ってようやくごそりと身をおこし、眉間をさすった。

「降参だよ、思い浮かばない」

「空は見てみた?」

「まだ布団の中」

「見たらいいじゃん。正解はすぐそこだよ」

 確かに、光を漏らす窓はすぐそこだ。それに正直、何色なのかがひどく気になっていた。

 見たこともない空の色って、一体何色なんだ。

 しばらくの逡巡の後で、好奇心に負けて僕は渋々ベッドから抜け出し、窓辺に寄った。目を細めて、いちどきにカーテンを引き開ける。

 そこに広がっていたのは、目の覚めるような青空だ。

「……青いんだけど」

「ほんと?」

「すごく青い」

「そりゃ良かった」

「怒るぞ」

 電話の向こうで、声が笑う。機嫌の良い、スズメが鳴くような軽やかさで。

「見にくれば?」

「は?」

「見にくればいいじゃん」

「なんで」

「だって、見たことない空の色なんだよ」

 僕は何と答えればいいのか言葉を失い、訝しげにスマホを見つめた。ここと向こうで、空の色が違うなんてことがあるのか?

「おいでよ。空を見にさ」

 どうせ既に布団から抜け出てしまったんだ。あとは顔を洗って、服を着替えればすぐに出られる。でも、だけど。

「大丈夫だよ、空を見るだけなんだから。そしたらすぐに帰ればいいじゃん」

 それも、そうだ。帰りにテイクアウトの朝食を買う。少し距離が遠いだけで、いつも通りじゃないか。

「……わかったよ。行くよ」

「本当?」

 やった、と遠く隔たった違う色の空の下で、声が華やぐ。

 僕は苦笑を零しながら、シャツを脱ぎ捨て、清潔な服を身に纏う。肩にスマホを挟んだままで。

「もう出る。で、どこに行けばいい?」

「うちに来たら? 朝食を持ってさ」

「外にいるんじゃないのか?」

「家の中だよ。もっと言えば、ベッドの中」

「はあ? お前、空の色が違うって言ったじゃないか」

「そうだよ、見たこともないくらい、哀しみの色に染まってるんだ。だってずいぶん、君と会ってないんだから」

 少しだけ寂しげな声が、申し訳なさそうに耳に響く。

「だから、君と会ったら、今朝の空は見たこともない色に変わるはずだよ」

 僕は陳腐でチープな言い訳に吹き出して、声をあげて笑った。

「笑わないでよ」

「ばーあっか! いいよ、行くよ。焼きたてのクロワッサンを買っていくから、珈琲を淹れておいて。2人で空を見ながら食べよう」

 僕は扉を開け放つ。

 朝日をまとった透明な青い空が、目の前に広がっていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

同じ空の下で 中村ハル @halnakamura

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ